ミサはなかなか面白い 55 「主はすすんで受難に向かう前に……」

「主はすすんで受難に向かう前に……」

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答五郎 こんにちは。元気かな。第2奉献文に入って、冒頭の神の聖性をたたえる句と、供えものがキリストのからだと血になるよう、聖霊の働きを願う祈りのところを見てきたね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ええ、わずか数行の中にも、いろいろなことが含まれていると思いました。

 

 

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答五郎 祈りの中で言われていることと、それを何と捉えるかという理解のための言葉と両方が出てくるから複雑に聞こえるかもしれないね。ついて来られているかな。

 

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問次郎 えーと、ここでは「聖霊の働きを願う祈り」、つまりエピクレーシスとか「聖別」というのが、理解のための概念ですね。

 

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答五郎 それぞれ抽象的にはなるけれど、いつもこの祈りの流れに即して使っているから、そのことも忘れないでほしいね。ここで「聖別」という言葉を使っていても、聖別一般というより、供えものがキリストのからだと血となることをいつも指していっているということだよ。

 

252164

問次郎 このところに関しては、「聖変化」と書いている解説書をちらっと目にしたことがあります。それと同じことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 供えものがキリストのからだと血となることを指していう言葉としては同じだといえるのだけれど、ミサの祈りの中にも、また総則の用語でも「聖変化」という言葉は出ていないよ。ラテン語でも伝統的にコンセクラチオ(聖とする、聖別する)という単語だった。しかし、他の言語(ドイツ語)などでは確かに「変化」を意味する言葉が解説書や要理書で使われたこともあって、その影響があったのではないかと推測できる。これも理解用語で、基本的には聖別と同じ意味だけれど、今、典礼書では使われていないという経緯だけをちょっと頭に入れておいてほしい。

252164問次郎 なるほど、またあらためてお尋ねします。では、きょうの箇所の初めは僕が読ませてもらいますね。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」から始まるところですね。

 

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答五郎  そうだね。そのあと、パンについての言葉があって、「食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました」と、杯についての言葉が続く。このことは、ミサの中でもっとも厳粛に感じられるところだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。司祭が声高らかに節をつけて唱え、またホスチアの入っている器を持ち上げて示して、みんながおじぎを……、杯についてもそうなりますよね。見学していても緊張するところです。

 

 

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答五郎 そうだね。奉献文とは文というだけなく、歌われる祈りだし、さらに言葉だけでなく、体も使って動作して礼拝するということまで含む、大きなものだということがわかるだろう。

 

 

252164

問次郎 この祈りは言葉だけではないということですね。

 

 

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答五郎 そう、とても多面的といえるかもしれない。個人でひっそりと祈るのとはずいぶん違うだろう。ところで、理解の手掛かりになるかどうか、総則(79-d)でここの部分は「制定の叙述と聖別」と呼ばれている。「制定」ってなんのことだと思う?

 

252164

 

問次郎 パンについて「みな、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」というところ、杯について「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)」というところですよね。

 

124594

答五郎 まあ、そうだ。簡単にいえば、パンはキリストのからだ、杯から飲むものはキリストの血であるということが定められているのだよ。その意味では、聖体の制定だということになる。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これをわたしの記念として行いなさい」までが制定なのではないでしょうか。使徒たちが続けていくべき新しい行いを定めた、命令した、という意味で。

 

 

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答五郎 ほんとうにそうだね。聖体の制定というだけでなく、聖体の祭儀、感謝の祭儀、つまりミサそのものを制定したともいえる言葉だ。「制定の叙述」といっている以上、パンと杯についての言葉が告げられた前後関係まで含めて大事だといえるだろうね。

 

252164

 

問次郎 最初の「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」というのも、いかにもナレーションですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ここは、有名な最後の晩餐のところですよね。福音書にもある場面が読まれていると思っていました。

 

 

124594

答五郎 イエスが最後の晩餐で聖体を制定したということが書かれている福音書は、マタイ、マルコ、ルカの三つだけだよ。マタイ26・26~30、マルコ14・22~26、ルカ22・15~20だ。ただ、その部分を見ても、今の冒頭の文章がそのまま出てくるところはないよ。

 

女の子_うきわ

美沙 そうかもしれませんが、そう聞けます。三つの福音書の話全体を踏まえた自然な語りだなと思って、違和感はありません。

 

 

124594

答五郎 実は福音書のようにイエスの生涯を語る文脈とは違うけれど、もう一つ大切な箇所が1コリントの11・23~25にあるのだ。パウロが、自分が主から受けたものを皆に伝えるのだといって語るところだよ。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」というふうに語っていく。

 

252164

問次郎 語りだし方は奉献文の雰囲気と似ていますね。あ、逆か。奉献文の語りだしがパウロの語り方に近いのか。

 

 

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答五郎 今あるほかの奉献文、たとえば第3奉献文ではどうなっているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました」となっています。

 

 

252164

問次郎 あっ、語りだしは、1コリントとほとんど同じですね。

 

 

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答五郎 三つの福音書の場合、最後の晩餐の叙述には、ユダの裏切りの予告とかいろいろな出来事が含まれて複合的な物語になっているのだよ。ただ、要約すると、奉献文の短い語りともそんなには違わないだろう。

 

女の子_うきわ

美紗 杯の前のナレーションも含め、1コリントやマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のそれぞれの語り方が背景にあって、奉献文の個々の語りが成立しているのですね。「制定の叙述」という意味も広い意味で考えたいです。「これをわたしの記念として行いなさい」と言って、この典礼を定めたイエスの言葉に教会がずっと従っていて、2000年近くもミサが行われ続けているというのはすごいことだなと思います。

 

252164

問次郎 でも、総則ではここは「制定の叙述と聖別」といわれているのでしたね。どういう意味で聖別 なのでしょうか。ふりだしに戻すようですが……。

 

 

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答五郎 きょうは少し長くなったし、そこのところは次回にしよう。ともかくミサを見学して、奉献文の言葉を味わっておいてほしい。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 54 「いま聖霊によってこの供えものを……」

「いま聖霊によってこの供えものを……」

124594

答五郎 こんにちは。前回は、ようやくという感じで、第2奉献文に入り始めたね。そのほんの最初の、「父よ」にかかわる表現だけでもいろいろ見どころがあっただろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。聞き流してしまうような句にも、神とはどういう方なのかについて考えさせるいろいろなことが含まれていました。

 

 

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答五郎 きょうは、早速というか、ようやくというか、続きを見よう。「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」。何か気になることはあるかな。

 

252164

問次郎 「とうといものにしてください」は、前の「まことにとうとく」と同じようなことでしょうか。
「とうとい」というのはつまり「聖なる」ということだと……。

 

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答五郎 そう理解していいね。ここの前半の祈りはラテン語の原文だと、さらに面白いので見ることにしよう。“Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica”となる。
「とうといものにしてください」と訳されている「サンクティフィカ」は、「聖なるものとしてください」「聖としてください」「聖化してください」とでも訳せる動詞だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「いま聖霊によって」という「いま」が重要だと感じていたのですが、それはありますか。

 

 

124594

答五郎 実は「いま」を意味する直接の単語はここにはないのだよ。あるのは「エルゴ ergo」という接続詞でね。「それゆえに」「したがって」という意味だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 なるほど、神はまことに聖なる方で、すべての聖性の源である方だから、それゆえに、この供えものを聖なるものにしてくださいという、関連が示されているのですね。

 

124594

答五郎 ただ、日本語で「それゆえに」とか入れると、論述ではいいのだけれど、式文ではふさわしくないと思われたのかもしれないね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ところで、気になったのですが、原文に「霊」はあっても「聖霊」とは言われていませんね。

 

 

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答五郎 たしかに「聖霊」でなく、「あなたの霊」となっている。結局は聖霊のことだから「聖霊によって」としていると思う。ところで、日本語に訳されていない単語(rore)があって、直訳すると、「あなたの霊のしずくによって聖なるものとしてください」と言われているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「しずく」ですか! 美しいですね。それに前の句の「聖性の源」が「聖性の泉」とも訳せる単語だったことを思い出します。

 

 

252164

問次郎 泉としずく。水つながりか!

 

 

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答五郎 実はこの「しずく」にはもっとほかにも深い意味が隠されているのだけれど、それについては、このAMORの特集9「聖霊」の中に「聖霊のしずく」という記事があるので参照してほしい。ともかく「まことにとうとく」から始まり、「とうといものにしてください」まで、「聖なる」ということがテーマだということは確かめておこう。

 

252164

問次郎 つまりは聖体に関係するわけですね。次が「わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」ですから。

 

 

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答五郎 そうだね。ちなみに、このように聖霊の働きを求める祈りを「エピクレーシス」という。ギリシア語で、上に向かって叫ぶ、祈るというところから来ている典礼学の用語だ。まあ、覚えなくていいのだけれど、奉献文の伝統的な要素の一つなのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 さきほど、原文には「いま」という単語はないといわれましたが、結局、聖性の源である神から
の霊が、いまここで働くように祈るという趣旨からすると、「いま」というのも、とても大事な意味合いを表現しているのではないでしょうか。

 

124594

答五郎 ほう。日本語の式文を作った先輩たちが泣いて喜びそうだ。たしかに働きを願う以上、いま、ここでの働きだからね。これも、ちなみになのだけれど、ここは「聖別」のためにエピクレーシスともいう。「聖別」ってわかるかな。

 

252164

問次郎 いままさにいわれた「とうとういものにしてください」、つまり「聖なるものにしてください」「聖体にしてください」ということですよね。

 

 

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答五郎 ズバリそうだよ。「聖別」 というと、日本語として硬いし、「別」って何とも言われそうだけれど、要するに「聖なるものとする」「神のものとする」という意味だと覚えておけばよい。ラテン語ではコンセクラチオだ。いろいろな文脈で使われる単語だけけど、奉献文の中では、たしかに「聖体にする」という意味で、パンとぶどう酒が聖体になるのには、聖霊の働きが必要だという考えが示されているところでもあるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 第3奉献文も、比べて見ているのですが、ここですね。「あなたにささげるこの供えものを、聖霊によってとうといものとしてください。御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」

 

252164

 

問次郎 「御からだと御血になりますように」というところで、司祭が十字架のしるしをしていて、重々しく、大切なところなのだという気持ちが高められますね。

 

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答五郎 そして、次にいわゆる聖体の制定と呼ばれる叙述に入っていくから、だんだんと重々しさが加わっていく。そういう祈りの情調の深まりを感じることも大事だね。次回はその制定の叙述を見てみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 53 「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

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答五郎 さて、いよいよ狭い意味での奉献文を見ていくことにしよう。「感謝の賛歌」が「天のいと高きところにホザンナ」という句で終わって、いよいよ、ひとまとまりの長い祈りを始めるところだ。

女の子_うきわ

美沙 何かとてもあらたまって、厳粛に感じられるところですね。

 

 

124594

答五郎 その感覚はどこから生まれるのか。ここで行われることの大切さ、深さといったものを感じさせ
るところだね。それは見学しているだけでも感じられるだろう。では、はじめの一括りの祈りを、問次郎くん、読んでもらえるかな。

 

252164

問次郎 はい。「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」ですね。

 

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答五郎 ぜひ味わってほしい。まず冒頭の父である神への呼びかけの部分「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」だ。ここで示されていることは、奉献文全体が、父である神に向かう祈りであるということだよ。

 

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問次郎 それはわかりますが、「父よ」を修飾する句が、少しわかりにくいですね。「まことにとうとく」というのは、「ほんとうに大切な」という意味でしょうか。それに「聖性」(せいせい)という言葉も抽象的な感じがします。

 

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答五郎 それは正直な疑問だと思うよ。自分も長い間同じように思っていた。「とうとい」は、普通漢字で書くと「貴い」や「尊い」だから、大切なとか、尊重されるべき存在を連想するだろうね。だが実は、ここにも日本語訳の問題があって、ここの意味を味わうには、ほんとうは原文を見る必要が出てくるのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「とうとい」を平仮名にしているところに意味があるのではないかしら。

 

 

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答五郎 ともかくここの原文は、“Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis.”となっている。はじめの「とうとく」はサンクトゥス、聖性と訳されている言葉もそれに関連するサンクティタスだよ。今は「聖なる」と訳されることばを、かつて「とうとい」と訳していたことがあって、それが使われている部分といえる。ちなみに、「源」と訳されていることばは直訳だと「泉」で、つまり「源泉」と訳してもよいようなのだよ。つまり「主よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉です」というのが、現代語風の直訳になる。

 

女の子_うきわ

美沙 ということは、直前の「感謝の賛歌」の賛美の調子が続いていることになりますね。「聖なるか
な、聖なるかな、聖なるかな」と歌っていた流れが受けられているのですね。

 

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答五郎  まったくそうだ。神の聖なるあり方を実感して、重ねた賛美しているという句になる。

 

 

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問次郎 「聖なる」というのはどういうことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 キリスト教ではいろいろなところで、この「聖なる」ことが神についていわれる。主の祈りでもそうだろう。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」とね。「聖」であることは、神とはどんな方かを示す重要な側面なのだが、ことばでは説明しにくいかな。

 

女の子_うきわ

美沙 厳かさとか、清さとかを感じて聞いていますが。

 

 

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答五郎 人間を超えた存在という意味もある。この言葉で神に呼びかけるということは、なにか人間を超えた、深く、高い存在を感じていることの表れであり、畏れ多い気持ちとセットになっていることに気づかないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 ミサ全体の厳かさは、聖なる神への祈りだからなのですね。

 

 

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問次郎 神が聖なる方であるということは、人間を超えていて近づき難い、畏れ多い存在だということを
強調しているのでしょうか。

 

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答五郎 ところがね。キリスト教の神は、ただ、ひとり聖なる方で、人間が近づいてはいけないような方、「神聖不可侵」という言葉があるけれど、そのような触れられない方、近づけない方というわけではないのだよ。そのことを示すことばがこの最初の句の中にあるのだけれど。

 

女の子_うきわ

美沙 「聖性」ですね。神は、「聖性の源」「聖性の泉」ですから、他のいろいろなものも「聖」になるための源泉が神だということがいわれているのですね。

 

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答五郎 新約聖書のパウロの手紙の中で、たとえば、ローマの信徒への手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(1章7節)としばしば書かれている。キリスト者となった人たちは神によって、そしてキリストによって、聖なる者とされた人たちだということなのだ。

 

252164

問次郎 神は近づき難い方ではなく、神から人に近づいてきてくれて、人を聖なるものとしたということ
になるのか。

 

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答五郎 そうなのだよ! 神は、もちろん人間とは異なる、人間を超えた存在なのだけれども、近づき難い方ではなく、人間に近づいてきて、その聖性という本質を分け与えてくれたというところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるのだ。

 

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問次郎 神は、超えた方であるけれど、わたしたちの中に入り込んできた方でもあるのですね。遠いのに近い……逆説的なのに、なにか深い感じもします。

 

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答五郎 そこで、聖霊の働きということが出てくるのだよ。それは次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 52 奉献文の「文」って何?

奉献文の「文」って何?

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答五郎……季節はもはや初夏という感じだね。ミサの「感謝の典礼」に入ってだいぶなるけど、きょうからいよいよ、狭い意味での「奉献文」という部分に入ろうと思うのだけれど……。

 

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問次郎……すみません。いきなり質問なのですが、狭い意味の「奉献文」と広い意味の「奉献文」について確認させてください。

 

 

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答五郎……ちょっとややこしい感じがするかな。広い意味の「奉献文」とはミサの式次第の中の「感謝の典礼」の中で、これが「供えものの準備」-「奉献文」-「交わりの儀」から成るというときの真ん中の部分を指している。

 

女の子_うきわ

美沙……冒頭の対話句、叙唱、そして「感謝の賛歌」も、式次第としては「奉献文」に入るのですね。

 

 

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答五郎……そう。そして「感謝の賛歌」が終わってから、ようやく狭い意味での「奉献文」という、ひとまとまりの祈りが始まる。たとえば、「まことにとうとく聖性の源である父よ、……」とね。

 

女の子_うきわ

美沙……あっ、第2奉献文ですね、いちばんよく聞きます。ほかに第1、第3、第4というふうに数で呼ばれる奉献文が全部で4つあるのですね。

 

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答五郎……1970年に今のミサが始まったときに奉献文はこの4つになったのだよ。その後いくつかの奉献文が加わっているけれど、基本はこの4つで、ふだんは第2奉献文か第3奉献文が読まれるだろう。

 

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問次郎……狭い意味、広い意味の区別はわかってきましたが、「奉献文」がどうして「文」というのかが疑問です。式次第の一部なら行為を表しているほうが自然です。「準備」とか「交わり」とか。

 

女の子_うきわ

美沙……私も気になっていました。唱えるというか、全体が歌われますよね。全体が大きな祈りですね。
それなのに、なぜ文字で書かれたものを指す「文」というのかしら……。

 

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答五郎……率直な質問だし、考えるべき問題だと思うよ。信者さんたちは慣れているところがあって、この部分で行われていることがミサのもっとも重要なところだということは経験的に知っている。式次第では「文」と書かれていてもあまり気にしない人が多いかもしれない。

 

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問次郎……外からミサを見学したり、式次第を見たりして学ぶ僕らには、やはり呼び名は気になります。

 

 

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答五郎……では考えていこう。まず「奉献文」は日本語のミサ典礼書を作る段階で考えられた呼び名だ。

 

 

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問次郎……もとはなんという言葉なのですか。

 

 

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答五郎……「プレクス・エウカリスティカ」という。「エウカリスティアの祈り」、直訳すれば「感謝の祈り」だけれど、「エウカリスティア」にはたくさんの意味があって「感謝のいけにえ」 「感謝のささげもの」という意味合いがここでは重要だ。なので「奉献」をメインに訳したのにはそれなりに意味がある。ギリシア語圏の教会で古来この祈りが「アナフォラ」(ささげもの・奉献)と呼ばれてきていることも参考にしたといわれている。

 

女の子_うきわ

美沙……では、「奉献の祈り」と呼べばいいのに、どうして「奉献文」なのでしょうか。

 

 

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答五郎……これは推測なのだけれど、昔、ミサがまだラテン語で行われていた時代には、ミサの式次第や祈りの内容を翻訳して信徒が読めるようにした『ミサ典書』があった。その時代は奉献文が一つで「カノン・ロマーヌス」と呼ばれるものだった。これを「ローマ典文」と訳したことがあったらしい。今でいう「第一奉献文」のことで、今も「ローマ典文」が副称として残っている。そのように「典文」と呼ぶ例があるので「奉献文」という言い方が生まれたのかもしれないのだ。

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問次郎……「カノン」ということばの意味は何ですか?

 

 

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答五郎……「カノン」というのは基準とか規範といった意味のラテン語で、いろいろなところで使われている単語だ。教会法もカノンというぐらい。ミサの中でのこの祈りの典範といったニュアンスだ。典文という訳語も適切だろう。もっとも、もっと昔にはラテン語でもさまざまな呼び名があったようで、オラツィオ(祈り)もあれば面白いのはアクツィオ(行い)という呼び名もあった。

女の子_うきわ

美沙……ラテン語で行われていた時代は、司祭がミサ典礼書のこの典文を唱えていたと聞きました。だとすると「文」としてもよかったのかなと思います。

 

124594

答五郎……実は唱えるというよりも、声を出さない沈黙の祈りとして唱えていたらしい。

 

 

女の子_うきわ

美沙……ええっ? ますます今とは違いますね。今は、信徒たちもと最初から全部聞きますし、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるところでは一生懸命司祭のことばに聞き入ってうやうやしく礼拝を一緒にしますよね。ほんとうに「祈り」だし「行い」だという気がします。

 

252164

問次郎……たしかに、ミサでもっとも緊張するというか厳粛な気持ちにさせられるところです。

 

 

124594

答五郎……そこまで感じ取ってくれているとは素晴らしい。たしかに「文」どころではないね。奉献文そのものを味わっていくと、ここで行われていることの豊かさもわかってくる。それを一つの名称にまとめるのは至難のわざなのだ。それを踏まえると、全体としてはひとまとまりの祈りという意味で「文」といい、その内容を「奉献」ということばで示すのは、言葉の限界を考えたら次善の策だったといえるかもしれない。

 

252164

問次郎……奉献文は「文」にして「文」にあらず。少し謎が残ったほうがよいということですかね。

 

 

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答五郎……では、その豊かさを、次から、まず第2奉献文、続いて第3奉献文を見ながら調べていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


「起こされて生きる」こととしての復活

「立ち上がる/起き上がる」という動詞

「復活」は、キリスト教の重要な信仰内容を表す代表的な言葉とされています。「キリストの死と復活」、あるいは信条(使徒信条)中で宣言する「からだの復活を信じます」というところなど。典礼で聞く言葉としても、聖書の訳語としても「復活」は用語として定着しています。かつて「よみがえり」ということばが使われていたのに対して、「復活」に統一されたという経緯もあったようです。

とはいえ、こうキリスト教のある意味で“定番用語”になりきってしまうと、逆にキリスト教の教えの奥座敷に鎮座しているようでもあり、それが、わたしたち一人ひとりの生き死に痛烈にかかわっているという実感が湧いてこない一面もあるのではないでしょうか。

「復活」という日本語(訳語)で意味されることのリアリティーはどうしたら見いだせるのでしょうか。ちょっと調べてみると、なかなか刺激的です。新約聖書で「復活する」を表す動詞は二つあり(アニステーミとエゲイロー)、どちらも「立ち上がる」「起き上がる」あるいは「立ち上がらせる」「起き上がらせる」「起こす」という意味のものです。エゲイローには「目を覚ます」という意味もあるとすれば、日本語の「起こす」「起きる」がそれだけで対応します。復活とは「起こされること」。基本の語義がそこにあるとすると、いろいろな事象への連想が広がっていきます。

参考にラテン語で復活を表すレスレクティオ (resurrectio) はレスルゴーという動詞に対応するものです。スルゴー(立ち上がる・起き上がる)に「レ」がついて「再び立ち上がる・起き上がる」の意味になっています。「再興する・復興する」という大きな事柄も指す語です(フランス語や英語もこのラテン語をそのまま導入して、キリスト教の「復活」を指す言葉として定着しています)。

もう一つドイツ語を見てみるとキリスト教の「復活」を表す単語は「アオフエアシュテーウング」(Auferstehung)。これもキリスト教用語「復活」の定番用語ですが、動詞アウフエアシュテーエンは (auferstehen) はやはり「立ち上がる/起き上がる」で、病気から「立ち直る」、廃墟から「復興する」などの意味でも使われるのです。こうしてみると、だいたい同じような現象に触れる単語であることがわかります。

 

「再」と「リ」の時代への福音

なぜ新約聖書で、復活が「立ち上がる/起き上がる」という語で表現されるかについては、聖書の背景にある死生観を見る必要があり、そこでは、死ぬということが、しばしの間、横たわること、眠ることと考えられています。それでこそ、その状態から「起こされ、立ち上がる」ことがまさしく命への回帰・復帰、復活だということになるのです。

さて、復興という意味が復活を表す単語に含まれていることを見るとき、わたしたちには、すぐさま震災からの復興、戦災からの復興という歴史と、今も直面している震災と原発事故からの復興という社会全体の命題が目の前に迫ってきます。全体的な復興の中にある、災禍を被った一人ひとりの人生における絶望や再起をかけてのそれぞれの歴史に思いを向けさせられずにはいられません。また、いうまでもなく、イエスの時代も今の時代も、病や負傷、ハンディある状態からの再起やリハビリということも、社会をかたちづくる本質的な側面であることが意識化されるようになっています。

社会のメジャーな体制、正規の階段から落ちこぼれたり、はなから疎外されたりするマイナーの存在、非正規の存在が互いに反射し合いながら、社会の実相を創り出している時代。いつの世もそうだったのかもしれませんが、イエスのまなざしは、やはり、そのようなマイナーな存在にこそ向かっていました。そしてその十字架からの復活への展開は、一人ひとりの中にある不安や絶望からの再起、立ち直りの不断の原動力として、今も人々に働きかけている、と考えるとき、ようやくキリストの死と復活が現実味を帯びてきます。

最近では「レジリエンス」 (resilience またはレジリアンス)という言葉が頻繁に聞かれます。回復力・耐久力を意味する物理の世界でも使われる言葉が、心理学の次元で、心のもろさ、折れやすさに対する回復力、要するに立ち直る力という意味になり、その力をどのように培うことができるかというテーマに展開しています。このようなアプローチにも、キリストの復活の意味と力を新たに見いだすヒントがあるのかもしれません。

どのような人の人生にもある「再起の物語」に目を向けていくこと、それがひいてはキリストの復活の反照として見えくるとき、この信仰と世の中のひとりの人生がはじめて絡み合っていくようになるのでしょう。さまざまな再起の物語を照らし出し、語り継いでいくことのうちに、復活と呼ばれる神秘の真のあかしを見いだせるのではないでしょうか。「AMOR-陽だまりの丘」にそのようなあかしをこれから集めていけたらと思います。

(石井祥裕/AMOR編集長)

 


ミサはなかなか面白い 51 主の栄光は天地に満つ!

主の栄光は天地に満つ!

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答五郎……こんにちは。前回は、叙唱から感謝の賛歌へ移っていくところで、「天使」が登場してくるということについて考えたね。

 

 

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問次郎……はい、天使が基本的には神の使いであるということ、また、黙示録などに出てくる神を賛美する不思議な生き物の存在もその系譜も入っていることを見ました。神のもっとも近くにいて、神を賛美したり、神の意志を人に伝えたりする存在ですね。

 

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答五郎……「天使」と聞いて、神話とか伝説の表現法というだけでないことがわかるだろう。

 

 

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問次郎……でも、あくまで、伝統的表現をミサは継いでいるということなのではないですか。

 

 

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答五郎……ある種、古代的な表象ではあっても、現実に関係しているのではないかと思うのだよ。

 

 

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問次郎……でも「わたしは神の使いです」といって現れてくるような存在はないですよ。あったら変人というだけでしょう。

 

 

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答五郎……そうではなく、たとえば、人が語ってくれた何らかの言葉が自分の心に深く響いて、自分を変えるきっかけになったということなどないだろうか。

 

 

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問次郎……なきにしもあらずです。何だったかは言えませんが。

 

 

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答五郎……何かを言われて、心に残り、自分にとっていい意味で成長のきっかけになった言葉。その誰かは、そのまま天使ではないけれど、そうして贈られた言葉は、「神のみ使い」のもたらしてくれたものと感じることができるのではないだろうか。言ったその本人は、全然覚えていないとか……。

 

女の子_うきわ

美沙……「あのとき、あなた、こんなこと言ってくれたわよね。嬉しかったわ」「ええ、そんなことを言ったかな?」的なことでしょうか。ドラマだけではなく、実際にもあるように思います。でも、天使とか、そういうふうに思ったことはないですけれど。

 

124594

答五郎……もちろん、天使を考えることは神を考えることだから、現代人が神を考えることが少ないとすれば、そうなるだろうね。

 

 

252164

問次郎……人の言葉でものすごく傷ついたときはどう言えるのですかね。

 

 

124594

答五郎……そういうときこそ「悪魔」とか「悪霊」とかを考える必要があるのではないかな。

 

 

252164

問次郎……ああ、そうか。それは事例が多そうです! 「天使」を考えることは「悪魔」や「悪霊」を考えることでもあるのですね。そうか、福音書にも多いですね。それでも、神話的というか……。

 

 

124594

答五郎……ここでは、あくまでミサの式文に「天使」が出てくるということのリアルさを考えてみてほしいのだよ。ミサに戻ろう。「感謝の賛歌」なのだけれど、前回、聖書のイザヤ書に出てくる賛美がもとになっているといっただろう。イザヤ書6章3節だ。

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」です。

 

 

124594

答五郎……では、ミサの「感謝の賛歌」の同様の部分はどうなっているだろう。問次郎くん。

 

 

252164

問次郎……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主、主の栄光は天地に満つ」ですね。

 

 

124594

答五郎……イザヤの言葉と似ているけれど、違うところがないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい、イザヤでは「地をすべて覆う」なのに「感謝の賛歌」では「天地に満つ」ですね。

 

 

 

124594

答五郎……イザヤでは、地上のすべてを覆う、そこを満たして余りあるように、主の栄光が考えられているのだけれど、ミサでは「天にも地にも満ちている」というように、主の栄光の偉大さがさらに全面的になって天までも満たしているように賛美されている。これは、教会で歌われる賛歌になったときに、変えられたというか新たにされた部分らしい。

 

女の子_うきわ

美沙……聖書の言葉がもとにありながら、典礼の聖歌で、考えが発展している場合があるのですね。

 

 

124594

答五郎……そうだね。そして、この文言どおり、ここで、まさに天上の典礼、つまり天使たちによってささげられている神への賛美と、今地上にある教会の神への賛美が合体しているというわけさ。

 

 

252164

問次郎……天上と地上、どうも、上と下というふうに空間的にイメージしてしまいます。

 

 

124594

答五郎……もっともだと思う。この宇宙時代、地球も天体の一つで、闇に輝く星だと知っているからね。結局「天」をどう考えるか、「神」をどう考えるかということだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙……さっきの話ですが、人の言った言葉が、どの人が言ったことかというよりも、その意味から影響を受けたということが大事だということでしたね。それが幸せなほうに働いたときに、そこには「神のみ使い」の働きが考えられるということですね。

 

124594

答五郎……少なくとも、そのように考えられるのでは、という提案だけれどね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それと似て、どこか、よその場所のことのように天上の典礼を想像しなくても、この式文や賛歌の言葉の意味を噛みしめ、味わう中に、天使もいるし、天上の典礼もあると考えられるのではないでしょうか。それが「感謝の賛歌」で、天上の典礼と地上の典礼のつながりがはっきりと示されるということなのだと思います。

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答五郎……美沙さん、どうしたの、とても深いことを言い当てている感じがする。まさに天使のささやきのようだよ。ともかく、そういったことは、心で感じ取るものではないかと思う。この話題はまたいつか出てくるだろう。次回からはいよいよ狭い意味での「奉献文」に入ろう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 50「すべての天使とともに」

「すべての天使とともに」

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答五郎……みんな、ご復活おめでとう! 隔週になってから毎回がずいぶん久しぶりな気がするけれど、元気だったかな?

 

 

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問次郎……一応、おめでとうございます。でも、どうして、ご復活はおめでたいのですかね。ご降誕もそうですよね。「明けましておめでとう」と意味が違うのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほんとだね。たしかに、自分も疑問に思ったことはあるし、「どうしてなのか」と真剣に考察するに値することだとは思うよ。でも、祝いたくなる気持ちもわかるのだな。今回はあまり突っ込まないことにして、今回のテーマはなんだったかな。

 

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問次郎……叙唱を見ていて、天使が出てきました。このことをちゃんと考えたいと思ったのです。

 

 

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答五郎……たしかにね。まず叙唱の具体例を聞いてみよう。復活の主日に唱えられる「復活 一」を、美沙さん、朗読してもらえるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの日に、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうとい大切な務めです。わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれたまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」

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答五郎……ありがとう。三つの部分があるのがわかるだろう。初めの部分は、「まことにとうとい大切な務め」という句が暗示するように、初めの対話句とつながっているところ。真ん中の文が、この日に祝われる神秘を述べるところで、中心的なところ。深いことが実に簡潔に述べられているだろう。そして「神の威光をあがめ」からは、続く「感謝の賛歌」への移行部だ。「感謝の賛歌」のことも目に入れて考えていく必要があるね。

 

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問次郎……そもそも天使がどうしてここに出てくるのでしょうか。

 

 

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答五郎……天使といって、背中に翼がついている何か子どものような存在をイメージしていなかな?

 

 

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問次郎……実は、そうです!

 

 

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答五郎……それは或る製菓会社の影響かもしれないね。それと「天使」という訳語が影響しているかもしれない。

 

 

252164

 

問次郎……天使のもとの言葉は何なのですか?

 

 

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答五郎……ラテン語はアンゲルス、ギリシア語のアンゲロスから来る。「使い」の意味、神の使いだから「み使い」と訳されることもあるけれど、「天使」というのもその意味だ。その役割は聖書から見ないとね。それに、絵で翼が描かれることが慣例とはいえ、そのもとも聖書にある。

 

女の子_うきわ

美沙……本質的なことは、神の「使い」であることなのですね。マリアへのお告げ、ヨセフへのお告げなどが思い出されます。空の墓でイエスの復活を告げた方も、そのみ使いと考えられます。

 

 

124594

答五郎……聖書には、そのようにして、神の意志や計画を告げ知らせてくれる存在のことがしばしば語られる。キリスト教にとって、どうして天使が大事かというと、主である神、父である神は、人間とコミュニケーションをする方だということが示されているからだと思う。神は人間と絶対的に違った存在ということもいえるけれど、いつも人間に関わる方でもある、絶対に他者なのだけれど、もっとも深く関わってくる方でもある、そこのところの橋渡しをするような役割を「み使い」つまり「天使」がしているのだね。

 

女の子_うきわ

美沙……それはわかりました。でもこの叙唱から感謝の賛歌に移るところは、神をほめたたえる存在としての天使ですよね。

 

 

124594

答五郎……おおっ、そうだね。神の意志や計画を告げる存在というだけでなく、神を賛美する存在としてここでは出ているね。このことを見るためには黙示録4章、5章あたり。とくに4章8節には神の玉座のまわりに翼をもつ四つの生き物がいて賛美の言葉を言い続けるのだけれど、美沙さん、読んで。

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。あっ、初めのところは、感謝の賛歌の初めのところそのまま!

 

 

124594

答五郎……もとをたどれば、預言者イザヤが見た幻の中で、主の座の前で「セラフィム」 という存在が主をたたえることばがあるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光、地をすべて覆う」。これも「感謝の賛歌」とほとんど同じですね!

 

 

124594

答五郎……また黙示録に出てくる翼をもつ四つの生き物のことは、預言者エゼキエルの召命のところで見た幻にも登場する(エゼキエル1章)。話があちこち飛ぶけれど、叙唱から感謝の賛歌への移行部分で、「すべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います」ということの背景には、これだけ聖書の中での神賛美の伝統が前提になっているのだよ。わかりやすくいえば、天上の典礼と地上の典礼があって、地上で行われている今の教会の典礼は、天上の典礼と呼応するものであって、一緒に唱和しながら神を賛美しているという理解があるのだよ。

 

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問次郎……天上と地上ということは、レトリックだけではないということですか。でも、なんとなく神話めいていて、現代の人が理解するのは難しいのではないでしょうか。次回、またこのことを考えさせてください。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


「食」とキリスト教あれこれ

キリスト教には食べ物に関するタブーがない

さまざまな宗教の人々が出会う現代ですから、ある宗教ではあれやこれを食べないという食べ物に関する戒律があることにも少しあります。日本には精進料理という伝統があるので、そのような習慣の人に出会っても「ああ、なるほど」と納得できる面がありますが、たとえば、イスラム教やユダヤ教では豚を、ヒンズー教では牛を食べないといった規定は、ふつうにそれらを食べている私たちにとっては、厳しいもののように思えます。変な言い方かもしれませんが、宗教らしいなと思わせるところもあるのではないでしょうか(食のタブー、宗教における食のタブーについては、いろいろな情報がネット世界に出ていますので、もろもろご参照ください)。

では、キリスト教には、そのような食に関する戒律があるでしょうか。確かに、ある教派では、食べ物や酒に関する禁忌を設けているところもありますが、本来、そしてカトリックの伝統においても、食べ物に関するタブーはない、禁忌戒律のようなものはないというのがほんとうです。だから……暴飲暴食が発生するのでは……と心配するかもしれません。何か食べ物に関するタブーがあるほうが宗教らしいのでは……と思われるでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』(1495~98年、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院)

あまり、言われていないですし、ましてや神学できちんと論じられてきたこともないかもしれませんが、「食」はキリスト教の本質にとても深く関わっています。……というより、そのことが、今日、ようやく気づかされてきたといえるかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵が有名なように、キリスト教にとって晩餐、食事ということは重要な場であったのですが、そのことの意味がきちんと論じられていなかったのでしょうか。

 

「食」は世の中を映し出す縮図

いつの頃か、メディアを通じて、「食」のつくことばが増えてきました。「飽食」の時代というように高度経済成長を遂げた日本社会のあり様を指していわれたり、一家団欒の食卓風景というものはテレビ・ドラマの中だけで、両親ともにそれぞれ働き、子どもは塾などがあって夕食も家族が揃わない光景が普通になると、「個食」ということばが生まれ、さらにそうしたくないのに、一人寂しく食べなくてはならない状況については「孤食」ということばが生まれたり。これらの現象に言及するネット情報からも、社会の姿が浮かび上がってきます。この場合の「食」は食べ物、食物に関しても、食べることのあり方、食べ方、食事のあり様に関してもいわれているのが特徴です。そして、とりわけ子どもたちにとって、これら「食」のありようが、人間としての成長・成熟に支障をきたす重大なことなのだという点の意識化が進んできました。

「農家さん」⇒「米屋さん・八百屋さん」⇒「家」というだけではない食をめぐる産業の発展ぶりはもういうまでもありません。まさに先進国での「飽食」と途上国での「飢餓」が隣り合わせになっている世界、地球環境、生命の問題すべてに関わる現象の中で、わたしたちはふだんどのように生きているのでしょう。あまり意識せずに生活の必要から、健康や経済にそれなりに気遣いながら適宜、利用し、駆け抜けているというのが実情かもしれません。

現代の「食」のあり方と「人」のあり方が相関し合っていること、その中で、いのちと食の関係を見直し、人間回復の機関活動にしようという広い意味での「食育」的活動がクローズアップされてきました。佐藤初女(はつめ)さん、辰巳芳子さん、伊藤幸史(こうし)神父の活動は、それぞれにわたしたちの意識化を促してくれています。

 

キリスト教神学と「食」

今、「食」は人類そのものにとって最前線の問題であるといえるかもしれません。人間にとって最重要テーマの一つであるならば、キリスト教にとっても、大きなテーマのはずです。では、どのように神学で研究されるべきかというと、案外、まだそれがきちんとできていないようにも思われます。

宮本久雄『存在の季節:ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館 2002年)

そんななか、一つの論考が目に止まりました。宮本久雄師(ドミニコ会司祭、元東京大学教授、上智大学教授)の著書『存在の季節:ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館 2002年)の第6章にある「食卓協働態とハヤトロギア」という論考です。西洋哲学の主流となったギリシア的存在論(オントロギア)と異なる「ハヤトロギア」という立場から存在を新たな視点で論じるという難しい書ですが、ここの論考自体は、人間の本質を称して、「ホモ・マンドゥカンス」、つまり「食するところのもの」として捉える人間論が展開されています。難しいのですが、こんな文章が目に止まります。

「生命の広大な連関や食連鎖という、いわばウィトゲンシュタイン流の『生の形式』にあって、人間は生と食を問う存在である。彼はこの生命と食の連関に無意識的に埋没せず、そこに依存するこの意味を問う特異な在り方をしつつ、生命的在り方を他の生物とは異なった仕方で創造する。すなわち人間は食を文化として再創造、再構成する。その意味で『人はその食べるところのもので在る』(フォイエルバッハ)といえる。そして人間はさらに自己が広大な生命連関において生かされてあることを感謝し、その宇宙大の生の形式を示す。古来人が食物の収穫時や祭礼において、神々に供物を捧げ、犠牲の家畜を奉献したこともその証左の一つであろう。」(221ページ)

「食は、人間的生命の普遍的交流の場であり、また根源的な生命力に感謝する祭礼でもあり、また生死をかけて闘争する根源悪の場面でもあり、文化や善や義の徳を創造する場でもある」(222ページ)

 

「食」の神学、「食」の霊性へ

宮本師は、この論考で、まさに、「食」を人間理解、それだけでなく人間の宗教性あるいは宗教そのものの理解の核心に置きつつあるようです。こうしたことを前置きとした上で、本論では、新約聖書に示された「食卓協働態」、つまりイエスが行ったり、語ったりした「食卓」や「宴」のあり方、使徒時代の信者共同体における「主の晩餐」のあり方を考察し、最後に、現代の食文明の危機的様相に目を向けます。大胆な考察で、まだ試論と呼ぶべきものでしょうが、ここには「食」を人間論、あるいは人と神との関係の中核に据えた実践的な神学の素描があるように思います。考察の展開の中で、石牟礼道子さん、道元、安藤昌益などが参照されているところには、「食」という主題の普遍性、現代性が如実に示されています。

イエスの食事、主の晩餐への論究からただちに連想されるのは、やはりミサではないでしょうか。他の教会では聖餐とも呼ばれるように、キリスト教の中心的な典礼は、結局は食事の営みがもとになっています(「ミサはなかなか面白い」でも考察が続いていますが)。今、復活祭を迎えていますが、イエスとの食事の記憶、特に復活したイエスとの一緒の食事の記憶がまさしくミサや聖餐の根源をなしています。

キリスト者とは、さきほどの「人間、食するもの」になぞらえていえば、まさしく「神の恵みとしてキリストを食するもの」です。神からの恵みを受け入れ、分かち合うこと(食すること)と、恵みへの感謝を神にささげることは表裏一体のことです。こんな、すごいことの意味合いを考えるのが神学であるとするならば、「食」はもっとも中心的な主題となってよいはずです。「食」の神学、「食」の霊性は、世の中でも求められており、教会や学校、家庭をとおしても意識化され、深められていくときを迎えているのではないでしょうか。

(石井祥裕/AMOR編集長)

 


ミサはなかなか面白い 49 神の民の祭司職とは?

神の民の祭司職とは?

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答五郎……さて、前回からいよいよミサの奉献文の部になり、冒頭の対話句と叙唱のところに入ったね。その対話句が原文では、会衆の「それは、とうとく、正しいことです」で終わるのが伝統だった。叙唱でも「まことにとうとい大切な務め」といった言い方が出てくるのと関係しているのだがね。

 

252164

問次郎……はい、その流れで「さいししょく」(祭司職)という用語が出てきたので、お尋ねしたいと思いました。

 

 

124594

答五郎……そうだったね。簡単にいえば「祭司」とは文字通り、神への礼拝を司る人のこと、「祭司職」とはその務めそのものを指すことばだよ。祭儀の司式者といってもいいかな。

 

 

252164

問次郎……「司祭」も同じ漢字の組み合わせですよね。前後が違うだけで。

 

 

124594

答五郎……そう。だからときどき間違えられる。もちろん、意味が重なっているときもあるから、ややこしいのだけれど、教会では「キリストの祭司職」とか「神の民の祭司職」という言い方をしても、キリストの司祭職、神の民の司祭職とはいわないのだ。

 

女の子_うきわ

美沙……祭司という用語は、旧約聖書でもときどき見ました。それとキリストの祭司職との関係はどうなるでしょうか。

 

 

124594

答五郎……そう、旧約時代、神の民イスラエルの生活が主である神から授けられた律法を中心にかたちづくられていくなか、礼拝祭儀を司る職務が祭司と定められていたのだね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……福音書を読んでいても、祭司長とか大祭司とか祭司長とかという人が出てきますね。

 

 

124594

答五郎……そう、それが古代ユダヤ教としてだんだん発展してくるなかで、大祭司とか祭司長とか細かな位階もできていたようだ。ただ、キリストの祭司職という言い方がされても、キリストがそれらの祭司制度を引き継いだというわけではないのだ。

 

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問次郎……大祭司、そして祭司長たち最高法院の人たちにイエスは死刑を宣告されたのですよね(マタイ26 ・68他並行箇所参照)。

 

 

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答五郎……まさにそれは象徴的でね。古代イスラエル、それを継ぐ古代ユダヤ教の祭司制度とは、キリストは根本的に断絶している。キリスト教から見れば、古い祭司制度はそこでいわば死んで、全く新たなキリストによる祭司制度が始まったのだ。

 

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問次郎……どういうことでしょうか。

 

 

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答五郎……旧約の祭司は神殿でいけにえをささげるのが務めだったのだが、イエス・キリストの場合、前にも見たように(ミサはなかなか面白い 44「あがない」の意味を探ってみよう/ミサはなかなか面白い 45「罪のゆるし」としての「あがない」)、人類の贖いのために自分自身をささげただろう。十字架の出来事がそれだ。そのことを中心として、人類を再び父である神に結びつけた、つまりイエス・キリストによって神と人の間に新しい契約が結ばれたのだ。

 

252164

問次郎……それが「新約聖書」の「新約」のことでしたね。

 

 

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答五郎……そして、そのようなキリストの働きや役割を指して「キリストは神と人の仲介者」という言い方もする。その仲介者としての働きのうちで、神の恵みを人に分かち合わせ、人の神への感謝や賛美や祈りを伝える役割を指して「キリストの祭司職」というのだ。その働きが根源的だから「大祭司キリスト」という言い方もある。このあたりのことは、新約聖書の「ヘブライ人への手紙」が詳しく論じているので、ぜひ読んでほしいな。

 

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問次郎……では、キリストの祭司職をもとにして、神の民の祭司職があるのですね。キリストにつながっている人たち、信者みんながもっている祭司職ということですね。

 

 

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答五郎……キリストの祭司職に基づく信者全員の祭司職を今は「共通祭司職」というのだよ。ミサをささげているのが信者全体だといわれるときの土台がそれだ。その中でもさらにコアな奉仕を神と信者たちにする司教・司祭・助祭のいわゆる聖職者の務めは「奉仕的祭司職」といわれる。

 

女の子_うきわ

美沙……キリスト教でいう「祭司」というのはもっと大きな広がりや深さをもっているのですね。

 

 

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答五郎……そういうことなのだ。ちょっと固い話が続いたし、式文の流れに戻るために、ここで祈りに耳を傾けてみよう。美沙さん、復活祭に唱えられる叙唱「復活 一」を読んでみてもらえるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……これですね。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの日に、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうといたいせつな務めです。わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死をうち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。神の威光をあがめ、権能を敬うすべての天使とともに、わたしたちもあなたの栄光を終わりなくほめ歌います。」

 

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答五郎……ここで「まことにとうといたいせつな務め」と唱えているのは、「わたしたち」つまり神の民の祭司としての務めを神ご自身の前で確認し、その自覚を表しているということがわかるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙……キリストが何をしたのか、贖いのいけにえであるという意味も鮮やかに告げられていますね。

 

 

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問次郎……美しい流れの祈りとは思いますが、ここで「天使」が出てくるのが疑問といえば疑問です。

 

 

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答五郎……それはもっともだ。この叙唱の最後は「感謝の賛歌」につながっていくところでもあるので、それも合わせて「ミサにおける天使とわたしたち」について、次回、考えることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサはなかなか面白い 48 「賛美と感謝をささげましょう」

「賛美と感謝をささげましょう」

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答五郎……こんにちは。ミサの「感謝の典礼」について、前回までは「供えものの準備」といわれる部分を見たね。その部分をしめくくるのが奉納祈願だった。そして、すぐに「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」の対話に入るだろう。

 

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問次郎……ミサの最初のあいさつと似ているので、また何か新しいことが始まるなという感じですね。

 

 

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答五郎……ここでは対話はそこで終わらずに「心をこめて神を仰ぎ」「賛美と感謝をささげましょう」と続く。

 

 

女の子_うきわ

美沙……「賛美と感謝をささげましょう」とみんなが唱えているところで、ミサって、なるほど、信者の共同体が賛美と感謝を神にささげることなのだなあと感じました。

 

 

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答五郎……実をいうとね、このような対話句は日本語版でのアレンジなのだよ。原文では直訳すると「主は皆さんとともに」「またあなたの霊とともに」「心を上に」「主に向けています」「わたしたちの主である神に感謝をささげましょう」「それはとうとく、正しいことです」となっている。

 

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問次郎……なんだかぎくしゃくしていますね。それを日本語版らしくアレンジしたというわけですね。

 

 

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答五郎……細かく原文の意味と日本語文の違いを論じるときりがないが、ともかく共通してはっきりしていることは三つのあるのではないかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙……主がともにいること、神に心を向けること、それから感謝をささげることでしょうか。

 

 

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答五郎……解釈はいろいろありうるけれども、まず主キリストが司祭と信者のみんなと一緒にいること、ここからの祈りは父である神に向かってささげる祈りであること、そして、その祈りは、なによりも感謝の祈りであることがいわれていると思うのだ。

 

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問次郎……日本語版は「賛美と感謝をささげましょう」というふうに「賛美」を加えているのですね。

 

 

124594

答五郎……どうだろうね。「感謝をささげる」のもとになっていることばは、ギリシア語ではエウカリスティアの動詞形だけれど、そのもとにあるヘブライ語の意味合いは、感謝の気持ちをことばで表すだけではなく、神にいけにえをささげるという行為のことも指していたし、神の恵みが素晴らしい、ありがたいということから神をほめたたえるという意味合いも当然に含まれているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……そのような意味合いを出すために日本語としては補ったというわけなのでしょう。でも、賛美の意味がはっきりと出るのはよいことだと、思います。

 

 

124594

答五郎……日本語で便利なのは、「感謝の祈りをささげる」「感謝をささげる」というように、祈りや気持ちをささげるというふうにいえることだ。原語の雰囲気をよく伝えているなあとつくづく思う。ともかく奉献文と呼ばれる祈りは感謝の祈りであるということが、この原文でも日本語文でも共通の「感謝をささげましょう」によってよく表されているだろう。

 

252164

問次郎……前に(ミサはなかなか面白い 42 根底にあるイエスの食事の記憶)、感謝の典礼全体にはイエスが弟子たちとともにした食事の記憶が根底にあるといわれましたね。そこで、イエスが食べ物を取りながら、天を仰いで、賛美の祈りを唱えたり、感謝の祈りを唱えたりしたことの記憶がここにあるというわけですね。

 

124594

答五郎……おお、そうだ。でも、実は記憶だけではないのだよ。天にいるキリストは、いま典礼のしるしのもとでここにいて、現にこのミサを司式しているというべきなのだ。だから初めに「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」と対話で確認しただろう。

 

女の子_うきわ

美沙……キリストがミサの中にいるという感覚にはなかなかなれませんね。一生懸命見たり聞いたりしているのですが。信者さんたちは、キリストのことを感じているのですね。

 

 

124594

答五郎……いやあ、なかなか、そういう意識になれないことが多いよ。具体的には、その日のその教会でのその神父さんの司式のほうに目が行ってしまってね。

 

 

252164

問次郎……司式者の背後にいる感じなのですかね。

 

 

124594

答五郎……いやあ、たしかに司式者の発話の中で主キリストのことばが語られるときがあるから、そのときはそうだけれども、司式者自身も共同体の代表として、キリストに祈りをゆだね、父である神に祈るという役割のときもあるよ。その変化を見るとき、ほんとうにミサはなかなか面白いものだなあ、味わい深いものだなあという気になるよ。

 

252164

 

問次郎……さっきから気になっているのですが、この初めの対話句の原文では、最後に信者さんたちが「それはとうとく、正しいことです」ということになっているのですね。このフレーズ、どこかで聞いたことがあるような……?

 

女の子_うきわ

美沙……そのあとの祈りの冒頭で、ときどき、「……まことにとうとい大切な務め」というときがありますよね。

 

 

124594

答五郎……そう、その祈りは叙唱というのだよ。広い意味で考えるときの奉献文に含まれるところなのだ。冒頭の対話句が第一の部分としたら、叙唱は第二の部分にあたり、対話句の最後のことば「とうとく、正しいこと」を受けている。対話句の終わりでは会衆が、叙唱の初めでは司祭が、同じように、この祈りが信者全体、つまり神の民である教会が行うべき尊い、大切な正しい務めだという自覚が示されているのだよ。これを神の民の祭司としての務め、祭司職ということがあるのだ。

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問次郎……「さいししょく」……ときどき聞くことばですね。この次、あらためて教えほしいです。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)