「共に歩む=教会」――小西広志神父に聞く


石井祥裕(AMOR編集部)

小西広志神父(左)と筆者:25年ぶりの対面

2023年暮れ、東京・世田谷区瀬田のフランシスコ会聖アントニオ修道会に小西広志神父を訪ねてきました。現在、瀬田教会主任司祭で、東京教区シノドス担当者として活躍されています。筆者とは旧知の間柄、およそ25年ぶりの対面でしたが、時の距離を超えて、教皇フランシスコについて、現代教会に関するさまざまなことに話が及びました。

懐かしい間柄での雑談ともいえる話になり、展開をそのままお伝えしてもわかりにくいので、この特集に合わせて、今、世界のカトリック教会が取り組んでいる「シノドス性」=共に歩むことというテーマ、教皇フランシスコの役割などについて、お聞きした話をまとめてみます。個々の点では、東京教区ニュースでの小西神父の連載から補って構成していきます。

 

――神父様はどういうきっかけで、シノドス担当者になったのですか。

東京教区の宣教司牧方針を策定する際に、お手伝いしたことがきっかけでした。大司教さまからも折りに触れて教会についての質問などをいただいて、組織神学を学んだわたしとしては喜んでお手伝いさせていただいた訳です。シノドスについては本当に何も分からないところから、スタートしました。特に原点である第2バチカン公会議の公文書『教会憲章』を読みなおすことに努めました。

目下、カトリック教会は世界全体で、「シノドス性」=「共に歩む教会」のあり方をテーマにしていますが、その大きなきっかけになったのは、2015年10月17日 教皇パウロ6世による世界代表司教会議設立50周年記念式典でのフランシスコの演説でした。そこで、フランシスコは「教会とシノドスとは同義語である」と発言し、これが大きな動因となったと言います。

――すでに醸成されていた流れにフランシスコが強く掉さすことになったのですね。

そうです。そのころ、イタリアでは、シノドス性や信仰の感覚(すべての信者が持っている信仰の感覚)についての研究が進められていて、それを踏まえてのフランシスコの発言でした。

2015年のこの教皇発言を受けて、国際神学委員会は、2018年に「教会のいのちとミッションにおけるシノドス性」という文書を発表し、以来 シノドス性(シノダリティ)ということが盛んに言われるようになります。小西神父は、シノダリティの訳語として、「ともに歩む」という日本語表現を司教団が選んだのはとてもよかったといっています。「ともに歩む」あり方、これこそ教会そのものだ、という理解、自覚が中心テーマとなったということのようです。

――2021年7月から準備が始まり、各教区、各司教協議会、各大陸・地域での討議を経て、2023年10月の世界代表司教会議の第16回通常総会が「ともに歩む教会のため――交わり、参加、そして宣教」が開催されたというわけです。これが第一会期で、2024年10月にはその第二会期が開催されます。しかし、『共に歩む』も『交わり』も『参加』も、そもそもは第2バチカン公会議が打ち出した教会理解だったのではないでしょうか?

そうです。解釈学ということがありますが、第2バチカン公会議文書に書いてあることを評価し、意義を見極め、よいところを発展させていこうという再解釈活動がこのシノドスの動きです。そもそもは、2005年暮れにベネディクト16世が公会議の精神に従うのではなく、公会議文書に書いてあるかを読み取り直して行動に移すことが大事だとおっしゃったのです。ある意味では、公会議文書のらせん的な発展形的繰り返しともいえます。教皇フランシスコにおいては、2013年着任年に出した使徒的勧告『福音の喜び』が方向づけになっていますね。

 

――フランシスコ会の神父様にお聞きしますが、教皇フランシスコがフランシスコの名を取ったところにもこの流れで意味があると思いますか?

まあ、アシジの聖フランシスコは、「私の教会を立て直しなさい」という、主イエス・キリストからの呼びかけを聞いて回心を遂げたというところに、象徴的なものがあるかもしれません。しかし、なによりも、アルゼンチンでの経験、民の神学がベースになっていると思います。

 

聖アントニオ修道院図書館での対談風景

――シノドス性とか宣教、福音宣教、といっても一般の人々だけでなく、信者自身にとってもわかりにくいのですが、最近神父様はケアということばについて話されていますね。

宣教というところにはいつも上から目線があったと思います。日本でのNICE運動 福音宣教推進会議(1980年代後半)でも「ともに喜びをもって生きよう」がスローガンになりましたが、「ともに、だれと?」という疑問が生まれるなど、まだ上からの目線が強かったと思います。この「ともに」というモチーフが深められたきっかけは二つの大震災(1995年の阪神・淡路大震災。2011年の東日本大震災)だったと思います。それによって一緒にいること、寄り添うこと、としての「ともに歩む」を学んできたというところがあります。ケアとはそのことを意味することばです。教皇フランシスコは『ラウダート・シ』で、まず環境に対するケアのことを言い、その後もよくこの表現を使っています。

ケアとは「世話すること、配慮すること、関わること」、福音宣教は、ケアという人と人とのかかわり合いによってなされる、その見本が自らのいのちを与え尽くしたイエス・キリストにある、そこからケアという福音宣教の新しい可能性を探っていきたい、と、小西神父は教区ニュースの連載(2023年3月1日)の中でも語っています。

このような「ともに歩む教会」、「つながりの教会」、ケアとしての福音宣教という、鍵となることばによって、教皇フランシスコの働き、全世界の教会の最前線の取り組み方、その姿勢について概略を得させていただけたように思います。その日本の文脈における課題性についてお聞きしての指摘です。

私のいう解釈学、先人たちの書いたものを評価し、ここはいいが、ここは不十分、と見極めて評価し、今、そして次を考えていくという営みが、日本ではとても弱いと思います。井上洋治神父なんかも今、再解釈されなくてはならないのではないのですか? 解釈するのは否定ではないので。ここまではよかったとちゃんと評価し、ここまではよかったけれど、ここはもっと発展させないと、というふうに見ていくことが大事だと思います。

一般の人々にも響くような形で、信仰のこと、イエスのことを語った井上洋治神父や遠藤周作のような存在を見つめ続けているAMORでもあるので、このようなメディアの役割にまで、小西神父のお話は、示唆を与えてくれるものとなっています。今後もいろいろなヒントをいただきたいものと思います。

小西神父の「東京教区ニュース」での連載は続行中。
また、動画による解説シリーズも公開されています。
今回のテーマにつながる教会についての講話(2023年7月9日 習志野教会黙想会)も提供してくれました。こちらからご覧ください。

 


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