「黒衣の教皇」現る? 知られざるイエズス会の本当の素顔とは(前編)


ローマ教皇フランシスコの来日が報道機関で騒がれる昨今。だが、あまり知られていないがそれに先駆けてイエズス会総長アルトゥロ・ソーサ神父が来日する。

フランシスコ教皇自身もイエズス会員でもあることはあまりにも有名だ。ところでイエズス会総長は一般に「黒衣の教皇」とも呼ばれている。それはなぜなのだろう。そもそもどうのような人物なのだろうか。また私たちは、たとえ歴史で習ったとしてもイエズス会について多くを知っているわけではない。どのような組織なのか。どのような人々がそこにいてどのような活動をしているのだろうか。様々な疑問が浮かぶ。

そこで今回大胆にも、現在イエズス会日本管区長補佐を務める山岡三治神父に、ご自身の信仰遍歴も含めて、具体的に話を伺うことにした。

webマガジンAMOR・クリスチャンプレス共同取材。

※なお、本年7月30日(火)午後7時よりカトリック麹町聖イグナチオ教会にて、イエズス会総長アルトゥロ・ソーサ神父の講演会「今日のイエズス会の使命と協働」も予定されている。

 

仏教からキリスト教へ

――まず冒頭、神父様ご自身について教えてください。どのような人生を歩んでこられたのでしょうか。

私自身は普通の家出身なんです。クリスチャンではなかったですが、祖父は神道も仏教もそれぞれ非常に深く信仰していました。毎朝毎晩祖父は20分から40分お経を唱えていましたね。それを聞いて育ちました。だからある時期は、それが終わらないと食事ができないということもあるくらいでしたね。

家は麻布でしたが元は商家でした。17代続いて、今は兄が継いでいます。今韓国大使館があるあたり、昔は伊達正宗家のお屋敷があって、そこに出入りしていた近江から来た商人なんですね。近江商人は庭に稲荷神社を置くんです。うちにも祠がありました。あれは商人の守り神なんだそうですね。

山岡三治神父

でも、私は幼稚園はプロテスタント系だったんです。近くに他になかったものですから。そしたら祖父が怒りましてね。小学校は区立でしたが、中高は仏教系に行けと。増上寺の宗門校の芝学園に行きました。今は普通の学校ですが、当時は頭をそらされましたね。驚きました。

先生はけっこうお坊さんが多かったですね。国語やそれ以外の科目も立派な人もいるし、そうでない人もいましたが、しかし英語だけは上智出身の先生でした。たぶんクリスチャンだったんだと思うんですが、すごく厳しくていい先生でした。すごく印象に残っています。

年に何回かは必ず浄土宗の行事をして。そういうときにはお坊さんの話を聞いたりして。校長はだいたい僧籍でした。現在もそうみたいですね。仏教的な雰囲気は身近でした。

家も浄土真宗で、その信徒総代とかしていたようです。そのような雰囲気の中で育ちましたが、信心深かったというわけではなかったですね。

 

――そのように仏教が身近にあった中で、どうしてクリスチャン(キリスト教)になろうと思ったのですか。

高校を卒業した後、人生の壁にぶち当たりました。自分の力では大学もうまくいかなかったし、世間はどうしてこうなんだろうという素朴な問いに始まって、人生についていろいろ考え始めて。すると宗教という存在をもう一度見つけたんですね。やはりお寺にも行きました。

その後思い出したのが幼稚園のときのプロテスタントの教会でした。

幼稚園というのはいいですね。何かしら種を植える。後になって、「あーあのとき」って。今でも教会に来る方って幼稚園がキリスト教だった、という方がいますね。多いですよ。あれは大事なことだと思います。幼稚園のあたたかい雰囲気もありますし。

それで私も勇気を奮い起こして教会に行ったんです。イグナチオ教会も入口はあんなに平らにしてるのに、敷居が高いと言われるくらいですから、私も勇気を奮いましてね。敷居は高いように思われましたが行ってみると、私が幼稚園にいた時代の園長さんと園長夫人が、まだそこにいらしたんですよ。「あらどうしたの三ちゃん?」って。

それで、毎週教会に行って、牧師さんから丁寧に教わりました。毎週一時間、礼拝と別に一対一で講義をしてくれました。礼拝と講義と祈祷会で週に三回は行っていました。若い人とのグループで遊んだり。

ただ、お酒が飲めないんですよね。そこは安藤記念教会という教会でしたが、安藤先生が禁酒運動を始めたところなんです。だから飲むわけにいかない。しっかりした良い教会ですよ。森文次郎先生という大変学識のある先生がいらして、説教は必ずノートを一生懸命取ったものです。ものすごく勉強になりました。それがカトリックにはない面ですね。

礼拝も勉強する場だと思ったらいいですよね、プロテスタントは。そのとき学んだ聖書の基礎は非常に良かったです。やがて、そこで洗礼を受けました。

その時代に、東京神学大学の夜間講座に2年間通いました。今でも銀座教会でやってますよね。当時は1970年前後のことです。その当時はすごかったですよねぇ。当時の東神大(東京神学大学)には有名な神学者がいましたね。北森嘉蔵先生とか。赤木善光先生、加藤常昭先生は今もご健在ですが、そのような人がぞろぞろいました。

今もそうかもしれませんが、レベルがものすごく高かったですよ。合宿とかもありましたし。あれは、私としてはものすごくいい経験でした。佐藤敏夫先生もいましたし、本当に超有名な先生方ばかりで。あの講座を今も続けているのはすごいですね。

そんなときに、牧師になりたいなぁって気持ちが出始めたんです。そのときいろいろな神学校や牧師先生を訪ねたりして。また朝祷会にも毎日出ましてね。月曜は飯田橋、火曜は丸の内、水曜は青山学院、木曜は代々木、カトリックも一緒にやっていたんですが金曜はイグナチオ、土曜は池袋西。7時くらいに始まるんですよ。毎朝行ってました。それで聖書の話を聞いて、祈って、パンを食べて。

立派な先生たくさんいましたよ。特に、ホーリネス系の人は印象深いな。戦争中牢獄にいた人たちだから、もう筋が違う。神山良雄先生のような先生とも会えましたし。すごいなぁって思いましたよ。

池袋西教会は、中国熱河伝道で有名だった福井二郎先生がいました。若い人がみんな彼について行って。その学生たちも先生に惹かれてどんどん中国に渡って。戦争前後の満州地方ですから大変な時代だったでしょうけどね。中には行方不明になる人もいたらしくて、実際日本に帰ってきた人はそう多くなくて。その先生は帰ってきましたが、それもあってか筋があった。迫力がありましたね。良い人とたくさん会いました。

あとなんといっても、榎本保郎先生。ちいろば先生ですよね。あの人は筋があるばかりか、人間味がとてもあるわけですよ。東京の郊外にある小さな修養会、つまりアシュラムに講師として呼ばれていらして、それに行ったら、話も、祈りも、これはすごいと思って彼の本を読んだら、やっぱりすごいでしょ。『ちいろば』ね。人柄が本そのままなわけですよ、その人が。これは会いにいかなきゃと思ってわざわざ今治に行って、3日間アシュラムに参加して。ご家族にも歓迎してもらって。それから1年以上付き合い続いたかな。榎本先生が東京来ると私がかばん持ちしまして、いろんなところに行きましたね。

インタビューの様子

 

プロテスタントからカトリックへ

――カトリックに移ろうと思ったのはなぜですか。その中でもなぜイエズス会だったのでしょうか。

私は、プロテスタントに不満ってわけではないんですが、自分の生き方の道を考えたときにカトリック行きたいって気持ちがあったんです。榎本先生にも相談したら、したいことをしろと言われました。

あとは、仏教の影響ですね。修行とかね。静かにずーっと祈り続けるとか。それから言葉がそんなに多くない。プロテスタントは言葉が多いですよね。言葉の宗教。プロテスタントも良いんですけど。良いけど、足らない感じがしました。

先ほども述べましたが朝祷会に通ってるときに、イグナチオ教会でイエズス会の神父たちにも会っていたわけです。それもホイヴェルス神父様のような優秀な方々がたくさんおられました。日本語で歌舞伎作っちゃうような人でしたよ。日本語もきれいだったし。有名な方が何人もおられたんですね。

彼らはみんな一緒に住んでるわけですよ。それで、見ててえらい楽しそうだなって。みんな違うんですよ。イタリア人がいて、ドイツ人がいて、日本人がいて。でもみんな同じ信仰で、でも個性はあって。すごく人間味があって、楽しそうでしたね。調べてみたら、なかなかいいなと思ったので。こういうところなら自分も成長できるし、一生いられるかなぁって思いました。

修道会に関心をもったのは、禅宗のお寺に2年間通っていたときに、言葉だけでは足りないと思ったことがあったからです。そういえばお寺にも朝比奈宗源老師や足立大進老師とか、有名な人がいらしてお世話になりました。私にはレベルが高すぎたです。でも良い人に会えた。

そういう、人から受けた影響がありました。イエズス会は仏教の研究もしていた修道会ですし禅の指導者もいたし、こういうところなら自分でも成長できるかと思って、申し出たんです。それでカトリックに移ったんですね。洗礼を受けずに「転会」という言いかたにしてもらいました。

 

――探求心というか、勉強熱心なのですね。

安藤記念教会で洗礼を受けた当時は慶応義塾大学経済学部の学生でしたが、学生紛争の頃でしたから、ストライキばかりで授業が半分なかった。だから、みんなそれぞれ好き勝手してた時代です。それで、私はお寺や教会に行っていたわけですね。

卒業試験はあったので猛勉強して卒業しましたが、ゆっくり学生として勉強しなかったという後ろめたさがありました。ですから、今度は東京教育大学、今の筑波大学に行ったんです。哲学科でしたが、またしても紛争が起こったんです。筑波移転闘争ですよ。今度は学生と先生が一緒になって当局に対して戦っていたわけです。その内分裂もありましたが。

それでまた勉強できなかったから、どうしたらいいのって思って。それもあってのイエズス会でしたね。朝祷会でイグナチオ教会に来ていましたから、勧められてその当時から上智大学の先生にはお目にかかっていました。門脇佳吉神父やリーゼンフーバー神父ですね。

実は、リーゼンフーバー神父は、当時30代なかばでしたが、東京教育大学に教えに来ていたんですよね。みんな、ドイツからすごい先生が来たって騒いでいました。哲学の深遠なこと話してるし、これはすごいなと。それで先に知ってましたね。

当時は上智もすごい先生方がいましたよね。東京大学でも教えていたデュモリン神父とか、英文学のロゲンドルフ神父とか、錚々たる先生方がいましたね。そういう環境に入りたいなぁと思って、イエズス会に志願しました。

後編に続く

山岡三治(やまおか・さんじ)
1948年生まれ。1976年イエズス会に入会。1984年司祭叙階。
2016年よりイエズス会日本管区管区長補佐を務める。
上智大学名誉教授。

 

(文責:石原良明=AMOR編集部/写真:坂本直子=クリスチャンプレス記者)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

14 − 11 =