懐かしさと、満ち足りなさと、突き抜けたさと~~井上洋治神父とのふれあいの思い出~~


石井祥裕

井上洋治神父とは二度会ったことがあります。一つは、1980年代前半、所属するカトリック関町教会に講演にいらしたときだと思います。教会の記録と照合していないので、あまり定かではないのですが、関町教会の保護の聖人が幼いイエスの聖テレジア(リジューの聖テレジア)であることから、その関係で呼ばれていたはずです。講演後、信徒会館の応接間で委員さんたちとの談論がありました。その末席に20代後半の自分がいました。会話の中で、テレジアが短い生涯の中で比類なき霊的な高みに昇ったことを語った瞬間の感慨深げな神父の表情が脳裏に残っています。会ったというよりは見た、というほうが正確な、ささやかな記憶です。

オリエンス宗教研究所刊『福音宣教』1998年1月号より

二度目に会った時のことは客観的な記録があります。自分がオリエンス宗教研究所発行の月刊誌『福音宣教』を担当していた間(1996年~2000年)、同僚だった鵜飼清兄(別稿執筆者。記事はこちら)とともに「風の家」に井上神父を訪ねてインタビューをさせてもらった時です。1997年のある日のこと。そのインタビューは『福音宣教』誌の1998年1月号に掲載されています(表紙写真参照)。気取りなく、率直にお話しをする、柔らかい雰囲気の方であることはその時撮られた生写真からも感じられることでしょう。その時の自分は「ききて」という立場に徹しています。すでに何冊も本を出して、明確なメッセージを日本の教会や読書界に発信している高名な神父さんに対して、一思索者として内面から向かい合っていたわけではまだなかった自分がいました。

当時、1927年生まれの井上神父は70歳。あれから四半世紀以上が過ぎ、今、自分がその年齢に近づいていることに愕然とします。典礼神学という自分の専従領域では言及することのない、井上神父の問題圏とのふれあいを、今、少し振り返ってみようと思います。

 

懐かしさと

あらためて『日本とイエスの顔』(1976年)、『余白の旅――思索のあと』(1980年)を読みました。『日本とイエスの顔』という本のタイトルも内容も、井上洋治師のそれからのメッセージの展開が方向づけられています。「アッバ」(父よ)、悲愛(アガペー)、幼子の心……たびたび繰り返され、肉づけされ、展開され、掘り下げられていくモチーフやキーワードがすでに出揃っています。語り口も自然で、それまでの信仰理解の伝統や傾向を超えていこうとする、その意図とそこから生まれる表現の苦労や工夫の跡が手にとるように感じられてきます。真摯な読書と対話を通して思索を進めていくその営み自体、学ぶべきものです。

それらすべてがとても懐かしく、今、感じられています。自分自身、現代キリスト教、現代カトリック教会と出会った1970年代の心の風景がよみがえってくるからです。あの時代、高校生から大学生にかけての時期……イエス・キリストと自分なりに“闘い”、屈服し、キリスト者として新生を遂げるに至った、あの頃の世の中と内面の双方が陽炎のように立ち昇ってきます。虚無感と熱さと不安と息苦しさが心の中で“ごった煮”のようになっていた時、一方では、第2バチカン公会議の文書(とりわけ教会憲章、現代世界憲章)が、他方で、井上神父のことば、直接・間接にその精神を共有していた(と今あらためて感じられる)司祭や大学の先生たちの説教や講話や文章が心をほぐし、耕していってくれたのでした。

井上洋治神父

井上神父の著書が繰り広げる東西の思索を対話して広げていくその思索世界は、自分たちの世代の多くにとって共通の土壌となっていたとつくづく思います。それだけに、逆にその思想自体が特記されるべき対象、論じるべき相手としての像を結ぶことが、少なくとも自分自身においてはあまりありませんでした。イエスに、聖書に、西洋キリスト教史に向かっていくときの“こちら側”の、まさしく前提となってくれていたのです。安心して頼れる堤でした。

今、そのように振り返るなか、『余白の旅――思索のあと』が新たに尊い書物となってきています。とくに、1927年生まれの一人の魂が戦前から1970年代までにたどった旅のドキュメンタリーとしてです。いわゆる公会議前のカトリシズム、神学世界、カルメル修道会、そして戦後復興期、経済成長期の日本の教会の様子など、文献を通して憶測するだけで実感したことのない時代の教会の姿に、胸の中で触れさせてもらえていると感じられるのです。その時代のカトリシズムがもっていた“圧”や“縛り”といったものをひしひしと。そこからの脱却というモチーフが師の思想と霊性の方向性の背景にあったのだ、ということ、「日本」というものがそこで解放空間となっていたのだろう、ということも感じられてきます。

 

満ち足りなさと

井上洋治神父は、『日本とイエスの顔』で「日本人の心で」聖書を読むこと、イエスと出会うことを勧め、自ら行っています。その後も、一貫して、日本人とキリスト教、日本文化の中での福音の開花という意味でのインカルチュレーション(文化への受肉という意味の現代カトリック教会の造語概念。井上神父は「文化内開花」として紹介)を主要テーマとして思索し語り続けていったことは周知のとおりです。当然に、日本人論、日本文化論がその中に含まれています。そこで、キリスト教信仰の観点から、日本の仏教者や思想家、歌人などの存在とその作品の意義が新たに掘り起こされるという、精神史、思想史の研究としても重要な価値のある取り組みが展開されていきます。その意義にはもちろん共鳴するのですが、他方で、そのような文脈に関して、満ち足りなさというか、無理感、無力感が自分の中に広がっているのも事実です。

自分の自覚的な学びと思索のスタートには、1970年代初頭の日本人論、日本論ブームがあったことが思い起こされます。『日本人とユダヤ人』(1970年、イザヤ・ベンダサンの筆名での山本七平の書)が読書界の話題となった雰囲気は、自分が西洋哲学やキリスト教を学び始めたときの環境でした。そして、自分自身、1990年前後、ヨーロッパのある国(オーストリアでした)に留学し、市井にがっちりと4年間住み、生活するという経験もしました。その中で日本人であることや日本文化に属する人間であることを当然、意識させられました。

また、当時の典礼神学や実践神学の世界では、「インカルチュレーション」という主題にとても強く関心が注がれており、日本人留学生として携わる博士研究でも、それを構想の枠組みとして使うことが期待されていたという雰囲気でした。しかし、実際には、異国にいて、日本人なのに日本をほとんど知らない自分を発見するばかりであったのです。日本の文化や日本人の心、日本人の精神などを語ることは到底できない、これからも多分できないだろう、と観念してしまったのでした。それ以来、「日本」や「日本人」を大括りにして語ることへの動機も意欲も置き忘れてしまっています。神学研究者としては、典礼神学を基盤に福音宣教論をも専門の一つとし、他方、過去に『福音宣教』誌や、今、このウエブマガジン「AMOR 陽だまりの丘」にと、広い意味での宣教メディアにかかわり続けていても、キリスト教と日本(人)といったテーマ立てはもうできなくなっている自分です。

『福音宣教』誌インタビューの様子。左が筆者(撮影:鵜飼清)

冒頭で紹介した『福音宣教』誌でのインタビューの中で、「公会議後30年以上たちますが、この間の進展についてどう思いますか」という「ききて」(=筆者)の質問に対して、井上神父は、「典礼の国語化が進められてきましたが、日本語の言葉の美しさ、味わいの感じられないものが多いという印象が強いです。文学者の知人たちも『あの日本語はひどい』と言っていたものです」と語っていました。同様のことは師の著作でも語られています。井上神父と同世代の文学者たちの典礼日本語に対する不評のことばは、ほかでもよく聞こえていました。

そのようななか1990年代半ばから、自分は日本語版『ミサ典礼書』(1978年刊)の改訂のための研究と試みの仕事に参加することになりました。この仕事のミッションにも実は揺れがありました。当初は、ラテン語の祈願文の翻訳ではなく、日本語で発想した祈願文を創出しようという、本当にインカルチュレーションの理想に満ちたビジョンが掲げられていました。しかし、2002年頃から、教皇庁の方針で、ラテン語の式文・祈願文をより忠実に反映した各国語版を作ることが至上命題とされるようになったのです。それからというもの、ラテン語原文とにらめっこをし、その内容を語彙的にも忠実に、そのうえで日本語として不自然でない表現に仕立てるという至難のわざに(もちろん委員仲間とのチームで)、今も取り組んでいます。

そこでは、インカルチュレーションやラテン典礼の日本化といった大きな理念はひとまず棚上げにし、ローマ典礼の古代からの伝統が籠る個々の祈願文や式文の言語、文章にひたすら向かい合う、地道な、粘り強い、職人仕事が延々と続いています。もし、これをインカルチュレーションの営みと言ってもらえるなら、それは、遠い開花を待ち望む、果てしない耕しと水やりの仕事だといえるかもしれません。一字一句、個々の表現と向かい合っていく作業、交わっていく作業には、しかし、無限の広がりや深さ、真の霊的な対話があります。上の世代からは未熟な仕事としか評価されないものにとどまっているのかもしれませんが、ここにも着実な信仰の取り組みがあります。

1920年代生まれの世代にとっては、40、50代になってから眼下で始まった典礼の国語化という事業は、まだ稚拙なものに感じられていたのでしょう。そこからの発言はその文脈においては多少理解できますが、今も同じように語られるべきものではないだろうと思います。自分たちの世代にとって、井上神父たちの思索や表現と同様に、日本語で行われるようになっていた典礼とその祈りのことば、福音朗読を通して眼前にあらわれるイエスの姿、行い、そのメッセージは、井上神父たちの思索や表現と同様に、尊い信仰的思索の源であり、出発点であり、魂が育てられた土壌であり環境なのです。小さなポイントですが、今、自分たちの側から、井上神父の思索を批判的に受容し、再評価するために、それは一つの重要な視角となっていくと思います。

ちなみに、2022年11月27日から、ミサ典礼書の式次第の新たな式文によるミサが行われています。そのなかで目立つこととして、「あわれみの賛歌」が「いつくしみの賛歌」となり、「主よ、あわれみたまえ」と歌ってきた歌が「主よ、いつくしみを(わたしたちに)」という文言に変わりました。個人的には、井上神父によって説かれた、イエスの姿、永遠の生命、悲愛(アガペー)、南無アッバを通して語られる内容は、「主よ、いつくしみを」という、願いでもあり賛美でもある句の中に凝縮されている、と感じ取っている次第です。

 

突き抜けたさと

懐かしさと満ち足りなさ、そのような両面感情で思い出される井上神父ですが、その思索世界は、今、教皇フランシスコと大きく重なってくるように感じているのは筆者だけでしょうか。「いつくしみの特別聖年」(2015年12月8日~2016年11月20日)を実施し、その公布の大勅書を『イエス・キリスト 父のいつくしみのみ顔』と題した教皇が、イエスを紹介するときのタッチは、『日本とイエスの顔』のモチーフとしっかりと重なってきます。

『使徒的勧告 信頼の道――聖テレーズ生誕一五〇年を記念して』(カトリック中央協議会、2024年)

幼子の心を説く井上神父と教皇フランシスコの間の根っこには、まぎれもなく、幼いイエスの聖テレジアがいます。幼子のような神への信頼と帰依の観点から、信仰を、福音を、キリスト教を語る方向性を開いた、テレジアの「小道」を見つけ、見つめ、そこを歩み続けたところに、井上神父の営みが有する真の普遍性があると思います。それは、今や広い流れとなり、その中から教皇フランシスコのことばも響いてくるかのようです。そのような方向性について、関町教会で連綿と続けられているテレジア研究を通して自分自身、薫陶を受けている現在です。

昨年2023年10月15日、教皇フランシスコは「セ・ラ・コンフィアンス」というフランス語のタイトルで、幼きイエスの聖テレジア生誕150年にちなむ使徒的勧告を発表しました。その邦訳が『信頼の道』というタイトルで先日(2024年3月10日)刊行されています。奇しくも、井上神父の帰天(2014年3月8日)10年を記念する時期に重なったその刊行を通して示される、聖テレジアと教皇フランシスコを結ぶ線上に井上神父の姿をはっきりと見ながら、それに力づけられながら、私自身も信仰的思索の旅と、与えられているミッションへの取り組みを続けていきたいと思います。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

19 + 8 =