呼びかけに対する一人ひとりの応え方―教皇フランシスコ『喜びに喜べ』を手がかりに―(前編)


K.S.

はじめに

『喜びに喜べ(原題:Gaudete et exsultate)』は、2018年3月に公布された、教皇フランシスコの使徒的勧告です。邦訳においては、「現代世界における聖性」という副題がつけられています。使徒的勧告とは、教皇の公文書です。使徒的勧告の多くは、ある特定の問題意識が中心に置かれながら、教皇フランシスコからすべての信者、そして世界の人々を励まし、促すメッセージが綴られています。使徒的勧告について、女子パウロ会のホームページでは次のように説明されています。

第2バチカン公会議後、4年に1度開催されるシノドス(世界代表司教会議)で、世界中の司教の代表が討議し、出した結論を教皇に提出し、教皇がそれに手を加えて発表するものは、ほとんどこの使徒的勧告と呼ばれるもので、回勅の次に位置づけられるものです。

今回取り上げている本書『喜びに喜べ』では、すべてのキリスト者の「聖性」がテーマとなっています。「聖性」と聞くと難しいイメージを持たれるかもしれません。しかし、「聖性」はイエス・キリストに憧れ、キリストのように生きたいと願うことであり、それは神からの呼びかけそのものと言って良いと思います。キリストのように生きたいという思いは、「聖人」のような生き方でしか反映されないと思われがちです。しかし教皇フランシスコは、本書を通して「聖性への招き」がすべてのキリスト者一人ひとりにもたらされているものであると、私たちの日常生活に視点を当てながら説いています。今回は、教皇フランシスコが語る「聖性への招き」について、耳馴染みのない方にもなるべく分かりやすくイメージしていただけるよう具体的エピソードを交えつつ、前後編を通してご一緒に考えてみたいと思います。

 

「聖性」へと招かれる瞬間

「聖性」という言葉に縛られると、その言葉が意味するところの本質を見失ってしまうかもしれません。なぜなら、「聖性」とは一人ひとり、その人にふさわしい形となって促されているものなので、この「わたし」自身が感じ、味わうことを通して本質を捉えることができるからです。例えば、「もっと心の広い人になりたい」とか「誠実に生きたい」と考えたことが人間一度はあると思います。それが、必ずしもキリスト教と直接関わっていないと思われるところから希求されてきたとしても、これはまちがいなく「聖性への招き」への小さな一歩ではないかと感じられます。

大事なのは、このような心の動きに敏感になって、自分の思いをしっかりとながめてみることです。これは、「お昼ご飯を何にするか」といった欲求のことではありません。もっと自分の根本、内面にかかわる望みと深く向き合うことであり、聖性への招きと密接なつながりを持っていると思います。本書で強調されているのは、聖性への招きが特定の人・物・場所でなされているような限定性のあるものではなく、すべての人――この「小さいわたし」にも開かれているものであるということだと思います。

 

招きへの応答

ここまで、「聖性への招き」とは何かを考えてきました。例えば、あなたが結婚式の招待状を受け取った時に出欠の返信をするとします。出席するか欠席するかは自分で自由に決められることであり、それと同様に聖性への招きも自由に応答することが可能です。ただし、どちらもあなたがその人のもとへ出かけていくことを選んだとしても、結婚式とは決定的に違うことがあります。それは、どのように向かうかの地図を自分でゼロから描かなければならないということです。「聖性への招き」に応えるために何を用いるか、そしてどのような服を着ていくかについて、私たちは自分に合った方法を探しながら進んでゆかなければなりません。

フランツ・イェーガーシュテッター(1907-43)

本書を読みながら、私は『名もなき生涯』という映画を思い返しました。本映画は2019年に製作されたアメリカ・ドイツ合作映画で、カトリック教会の殉教者、福者フランツ・イェーガーシュテッターの生涯をモデルに描いています。イェーガーシュテッターは、第二次世界大戦時に良心的兵役拒否を行い、処刑された農夫です。司教や司祭といった教会の指導者たちに促されても、「罪なき人を殺すことはできない」という考えを貫き通しました。(本映画は過去にも当サイトで取り上げられています)

イェーガーシュテッターの生涯は、現在でこそ多くの人々に知られています。しかし、作品のタイトルにもあるように、当初はヒトラーへの忠誠を拒否したことで処刑された、「名もなき」農夫でした。イェーガーシュテッターの行動は、私たちが簡単に真似できるものではありません。けれどもこの実話を通して、誰にも知られずとも正しい行いを貫いた人々がどれほどいることだろうかと想像できるでしょう。私たちの善い行いがどれだけの人に知られたかということは、重要なことではありません。

つまり、私たちが聖性への招きに応えるために国籍や性別、年齢、能力、職業といったものは関係ないということです。また、神父やシスターといった聖職者である必要もありません。私たちはいかなる状況においても、自分自身の道を識別することによって、神の呼びかけに喜びにもって応えていくことができるのです。

また、大きなことを成し遂げるのも素晴らしいことなのですが、一見小さいように思われる働きを日々継続しようと挑戦することは、より一層の大きな実りを結ぶ可能性があると思います。出会う人に対して惜しみなく愛をそそぐという生き方は、真の意味でその人の立場に寄り添い、共感と喜びをもって仕えることです。これは正しさ、信仰、忍耐、柔和な心を必要としており、とても難しいものです。「愛をそそぐ」生き方とは、一体どんなものでしょうか。

後編に続く)

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

2 × three =