「事実」か「意味」か?


池田 辰之助(聖ウルスラ学院英智高校 宗教科教員)

イエス・キリストの復活という出来事を伝える使命は、カトリック校の宗教科教員として働く中で非常に意義深く、やりがいのあることであると同時に、教員にとっては非常に困難な業務であることは間違いない。宗教科の先輩の先生方に聞いても、毎年、どの生徒に対してもキリストの復活や受胎告知を説明するのに困難を感じるという。果たして、この困難さはどこから来るのか。私は、その原因を探るべく、昨年度、担当学年である本校の高校3年生に対して聖書における復活のエピソードを読んでもらった後にアンケートを行った。

すると様々な感想が出たが、「イエスという人物はよい人物だと思うが、神とすることは納得がいかない。」、「死んだ人間が復活したということは非科学的である。」という意見が多く見受けられた。こうしたことから生徒たちの中には、聖書の物語やイエス・キリストの復活の出来事を味わう前に、宗教そのものや聖書の物語に対して「事実」かどうかを気にする価値観に囚われており、そこに復活や宗教に向き合うことの困難さの原因があるのではないかと考えた。

そうした昨年度の反省を踏まえ、今年度の担当学年の1年生に対して、まずは年度初めから聖書という物語が「事実」であるかを求めるのではなく、どのような「意味」を読み取ることが大事であるかを強調するように心がけた。さらに各単元の最後にテーマに関連した聖書箇所をグループで読んで意見を交換し合い、「この聖書箇所はどのようなメッセージを伝えたかったのか」を考えてもらい、聖書の物語から生徒自身が「意味」を読み取る活動を展開していった。

シモン・チェホヴィッチ『復活』(1758年 ポーランド クラクフ国立美術館)

こうした活動を通して、生徒たちからは様々な意見が出た。もちろん、中には突拍子もないものもあったが、それでもどんな解釈も肯定し、どうしてそう読み取ったのか丁寧に聞くことを心掛けた。そして、いよいよイエス・キリストの復活の箇所に差し掛かった。私は1年生の生徒たちに復活のエピソードを読んでもらった後で、昨年度と同じようにアンケートを行ってみた。

すると生徒たちからは「事実かどうかはともかく、イエスの復活がなければ、弟子たちはキリスト教を始めなかったと思う。」、「自分が弟子ならイエスと再会できて嬉しい。」などイエス・キリストの復活の出来事の「意味」を自分なりに受け止め、考えてくれている意見が見受けられるようになった。

このようにイエス・キリストの復活の出来事のみならず、聖書の物語やキリスト教の信仰内容を伝える際には生徒たちの中にある「事実」かどうかという枠組みを取り去り、生徒たちの疑問を受け止める。その上で宗教や聖書の物語から自分なりに「意味」を見出すという新しい枠組みを提供するという取り組みが必要なのではないだろうか。

 


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