「復活」の授業  ― 価値ある解答無き問い?― 


奥山記観夫

「イエスがかわいそう」生徒のコメントのひとつです。イエスの犠牲の上に成り立つ救い、その印象を強く与えてしまったのだと思います。人間が正しく理解できるか否かは別として、その教えを伝えるために欠落したもののひとつに気づいた瞬間でした。この瞬間から復活を授業で取り扱うことが、私にとって必要不可欠となりました。勤務校のカリキュラムとして固定化されているものとしてではなく、共通の目的のために一個人として行っている授業内容として以下、ご笑覧いただければ幸いです。

高校1年生の授業において、復活は3回取り上げます。

1回目は、イエス様の学びの導入として行う生涯の概要の中で、十字架による救いとセットで伝えます。まず論理的な贖罪の説明を行った後、人間が行った自己犠牲的な奉仕の例を示すことで十字架による救いのイメージを掴んでもらう努力をします。次に復活させられたことを紹介し、イエスが単純な犠牲者ではないことを伝えます。

エル・グレコ『十字架を担うキリスト』(1577~87年頃 ニューヨーク メトロポリタン美術館所蔵)

2回目は、イエス様の生涯について個別の出来事を観ていく中で取り上げます。共に歩んだにもかかわらず裏切った十二弟子、悔い改めるためのメッセージを与えられたにもかかわらずえん罪を生み出した指導者、救いと奇跡を示されたにも関わらず磔刑を確定させた民衆、その彼らに対して「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカによる福音書 23章34節)と祈られたイエス様。なぜイエス様は、そのような態度でいられたのか。自分を無にし、神を信頼したから(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。この「信頼」の中には、復活も含まれるという思いを持って授業を展開しています。元敬和学園高等学校校長の小西二巳夫先生が、アンパンマンを例にこのことについて説明をされているのを拝見したことがあります。アンパンマンが弱体化を恐れず自身の顔を弱者に差し出せるのは、ジャムおじさんが新しいパンを作ってくれると「信頼」しているから。なるほど、と感服しました。

3回目は、イエス様の生涯をまとめる中で取り上げます。まずイエス様の歴史資料、『福音書』や『年代記』を紹介します。次に社会科の教科書に掲載される程の信憑性があるにも関わらず、その実在性が疑われる原因の1つとして復活を取り上げます。この現象について論理的に分かりやすい説明を加えようとはせず、「分からない」まま終わります。教育においてネガティブ・ケイパビリティが大切であるという意見を聞きます。つまり、解答や対処法が見つからない事態に耐える力を養うことが現代社会を生き抜くうえで大切、この力を養うために復活は素晴らしい「教材」であると考えます。恐らく人間の力では完全な肯定も否定もできない出来事、解答のない事であると思います。にもかかわらず多数の人々が信じ希望を受け取り力強く生きたという事実を生み出した「価値ある解答無き問い」ではないかと考え授業に臨んでいます。

 


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