呼びかけに対する一人ひとりの応え方―教皇フランシスコ『喜びに喜べ』を手がかりに―(後編)


K.S.

(前編はこちらです)

はじめに

前編では、教皇フランシスコの使徒的勧告『喜びに喜べ』を手がかりに、「聖性への招き」が一人ひとりに対して向けられているものであることを確認しました。後編では、教皇フランシスコのこれまでの活動に触れながら、「聖性への招き」に対する具体的な応答について考えていきます。

 

教皇フランシスコの姿勢

「惜しみなく愛をそそぐ」生き方とは、実際どのようなことなのでしょうか。他者に対して、できうる限り惜しみない愛をそそぐことの大切さを説いている教皇フランシスコは、模範となるようないくつかのエピソードを残しています。

一つ目は、2015年1月のフィリピン・マニラ訪問で起こった出来事です。教皇フランシスコは、このマニラでの集会において一人の12歳の少女から次のような質問を受けます。

私のまわりには親から見捨てられた子ども、薬物や売春などの犯罪に巻き込まれる子どもがたくさんいます。なぜ神さまはこのような状況を許しておられるのですか。子どもは何も悪いことをしていないのに、助けてくれる大人はなぜこんなにも少ないのですか。

(Tokyo Christian Vox翻訳より一部引用)

少女は、質問の途中で思わず泣き出してしまいます。教皇フランシスコは、少女を優しく抱きしめ、次のようなことを答えました。

なぜこんなにも子どもが苦しまなければならないのか――私は、ほとんどその答えを持ち合わせていません。彼らが伝えた現実に対して、一緒になって『泣く』ことができた時にだけ、ほんの少しだけその答えに近づくことができるのでしょう。私たちの心が自分自身に問いかけ、そして涙することができた時に初めて、やっと何かを掴めるのではないかと思うのです。この世の中には、世俗的な『憐れみ』の心があります。それは、ポケットから取り出したお金を渡して回るような同情心です。ただキリストが泣いた時、その瞬間、彼は私たちの人生の苦労を知ったのです。(中略)涙によってきれいに洗い流された瞳をもってのみ、私たちは確かな人生の真実というものを見出すことができるのではないでしょうか。心を開いて涙することを覚えましょう。問いの答えは沈黙を貫くことか、または涙から生まれた言葉の中にのみ見つけられるでしょう。だから、どうか『泣く』ことを恐れないでください。

(Tokyo Christian Vox翻訳より一部引用)

この社会には、私たちが解消できない貧富の差や世界各地で勃発する戦争や紛争という暗い現実があります。私たちは、少女が訴えていることに直面した時、自分の無力さを痛感する一方で、「何か大きなことを成し遂げなければならない」と頑張りすぎてしまうこともあるかもしれません。しかし教皇フランシスコは、神が一人ひとりに対して呼びかけており、私たちがそれぞれの置かれている場から愛をもって生き、証しすることができると力強く励まし続けているのです。困っている人、苦しんでいる人に単なる同情心を向けるということではなく、本当の意味でそれらの人の立場に自らを置いて考えた時に、真の寄り添う姿勢へと促されます。そして、それは時に涙となってあふれ出てくるということを、少女との対話を通して示したのでした。

『使徒的勧告 喜びに喜べ――現代世界における聖性』(カトリック中央協議会、2018年)

二つ目は、2022年12月8日の無原罪の御宿りの祭日にイタリア・ローマで起こった出来事です。教皇フランシスコは、ローマのスペイン階段で祈りを捧げながら、ロシアが侵攻を続けるウクライナの人々の苦しみについて言及していました。その時、教皇フランシスコは感情を抑えきれずに涙を流して、声を詰まらせました。自分を落ち着かせようと、必死に嗚咽を抑えるかのような姿勢でしばらく身を震わせたのです。

私は、その映像を視聴し大変驚きました。なぜなら、教皇フランシスコのような世界のリーダーが、自分の感情を露わにするということを想像したことがなかったためです。しかし同時に、上述したマニラでの少女との対話を思い出しました。そして、涙を流しながら人々と苦しみをともにする教皇フランシスコの姿勢を感じ取ることができました。そもそも教皇は、ローマ・カトリック教会における最高指導者です。そのような教皇と私たち、とりわけ困難な状況にいる人々との間に物理的距離があるのは致し方のないことで、ごく自然なことです。しかし教皇フランシスコは、自らの涙をもってウクライナの人々とともにいようとしました。どのような立場や環境にあっても、苦しんでいる一人ひとりのことを想い、その人に近づいていこうとするからこそ、感情を表にして悲しむことができるのだと思います。

 

教皇フランシスコと聖母マリアの想い

このような教皇フランシスコの姿を通して、思い出される箇所があります。それは、ルカによる福音書の「シメオンの賛歌」です。イエスが生まれて40日後に両親に連れられてエルサレムに行き、神殿に奉献にささげられた時、母マリアに対して預言者シメオンが言った次のような言葉に表れます。

御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。

(ルカによる福音書‬‭2:‭34‬-‭35、新共同訳)‬‬‬‬‬‬

「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――」マリアは、これを聞いてどのような気持ちになったでしょうか。実際、マリアの生んだイエスは人々の思いによって十字架にかけられ死にました。まさに「剣で心を刺し貫かれ」る思いではなかったかと推察できます。しかし、福音書によると、母マリアはその場面にも付き従っていたようです。その他にもマリアは、イエスのことで自分の常識や想像を超えた体験を多くしていると思うのですが、すべて心に納めています。

私は、マリアが「心を刺し貫かれ」ながらもイエスに連れ添う姿、そして教皇フランシスコが涙を流しながらも必死に自分の責務を全うしようとする姿――これらに一つの重なりを見出せるように感じられてなりません。マリアや教皇フランシスコは、ともにそこで発生している問題や事例に対して解決する術を持ってはいませんでした。私たちの日常場面においても、そのようなことばかりだと思います。しかし、自分の弱さや小ささに直面する時、自らが本当に寄り添いたいと思う人のためにできることは何があるかと考えることこそ、「聖性への招き」に対する応答が祝福される時なのではないかと感じられます。

 

おわりに

今回は前後編にわたり、教皇フランシスコの使徒的勧告『喜びに喜べ』が、「聖性への招き」に対して一人ひとりが生き生きと応えられるよう促しているということを確認してきました。教皇フランシスコは、私たちにとって身近な生活の場面をうまく用いながら、誰もが聖人となり得る可能性を持っていることを気づかせてくれます。また本書を通して、教皇フランシスコのこれまでの人々に対する献身的な働きとのつながりを見出すことができました。このつながりは、私たちが自分にとっての「聖性への招き」そしてその応答を考えてゆくにあたって、重要な示唆を与えていると思います。

『喜びに喜べ』のタイトルは、マタイによる福音書5:12の「喜びなさい。大いに喜びなさい。」から取られています。これは何か不条理なことを我慢し、無理して喜ぶことを求められているのではないと思います。私たち一人ひとりの「望み」を自分自身に聴き、それを叶える喜びについて、大いに喜びなさいということではないでしょうか。ぜひお手に取っていただきながら、あなた自身の考えを深めてみてください。

 

【参考】

・フィリピン・マニラでの少女との対話

 

・ウクライナの人々を想い、涙する教皇フランシスコ

 


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