④旅する縄文人2/2


森 裕行(縄文小説家)

私は旅が好きである。自分の生育史を考えても自分は定住民と言えるだろうかと考える時がある。引っ越しも今まで15回はした。旅行も結構する。今回は10,000年前の栃原(とちばら)岩陰遺跡から見えてくる縄文人のリアルな旅。縄文人の生と死、そして旅を考察する。

3.旅する縄文人2/2

(北相木村考古博物館にて2021年3月 筆者撮影)

海抜1,000mを超える信州の北相木村考古博物館で一番印象的だったのはこのジオラマである。女性が針(骨製)で縫物をし、男性が皮靴を履き黒曜石の鏃(やじり)がついた矢と弓、獲物を持っている。子供もなにやら楽しそうに遊んでいる。そして全員が貝の首飾り。炉には土器が据えられ食事の準備中のようだ。
 縄文早期、約10,000年前ぐらいの生活が、4~5mの深さの地層から発掘され、人骨、骨製品、食べた動物の骨の残滓、貝製品、石器などの実に多様でリアルな遺物を調査研究することで再現されたものだ。普通なら残らない有機物が残るのも岩陰遺跡ならのものだ。

ところで、縄文時代は非常に長い期間なので時代区分と縄文早期について簡単に補足したい。

旧石器時代は氷河期であるが草創期も寒冷は続き、関東の海面も早期のはじめはー50mといったデータがある。その後早期に急速に温暖化が進み定住化が高まってくるが、のちの世の定住と異なり、早期は特に季節的な移動も想定できるようだ。

それでは、このジオラマが語り掛ける旅する縄文人について、主として藤森英二氏の「信州の縄文早期の世界 栃原岩陰遺跡」(新泉社 2011年)および北相木村考古博物館報を参考にご説明する。

 まず、驚きは縫物をする女性である。男女は革製の衣服を着ているが、最近の研究成果ではもっと手の込んだパッチワーク状のおしゃれな衣服だった可能性もあるという。針は骨製であるが糸をとおす穴がきちっとあり驚く。

(「信州の縄文早期の世界 栃原岩陰遺跡」(新泉社 2011年)46P)

骨製の針は旧石器時代に発明されており、テントや衣服の防寒性能は格段に上がり、現世人類の行動範囲を画期的に広げたようだ。早期は鹿やイノシシといった獲物を求めて移動する生活(中央高地と関東平野など)も考えられる一方、最近の研究で土器にマメ類の圧痕まであり狩猟・採取時代の定住化への鼓動も十分感じられる。

(「信州の縄文早期の世界 栃原岩陰遺跡」(新泉社 2011年)59P)

この写真は首飾りに使われている貝殻。タカラガイ、ツノガイやハイガイ。そんな材料は関東の海などに行かなければとれないものである。北相木村の縄文人が直接海岸まで出かけるか、海の民との交易があったということになるのだろう。

 矢の鏃(やじり)には黒曜石が使われている。するどい切れ味をほこる黒曜石はどこでも採れるものではなく産地が限られている。黒曜石は蛍光X線分析で産地を特定できる。縄文早期のはじめのこの遺跡では信州の産地の黒曜石が使われていることが分かったが、長野県長和町の和田峠・鷹山から運ばれているものも含まれていた(Googleで調べると約60km離れている)。

 因みに鷹山遺跡群は黒曜石の産地であり、星くそ峠に行くとクレーター状の採掘跡が200近くある驚くべき遺跡である。現場には黒曜石の破片がところどころに落ちており(持ち帰ることはできないが)、それに触れると縄文人に間接的に触れたような感動を味わうことができる。ここで採れた黒曜石は旧石器時代から縄文時代にかけて使われ地元だけでなく同じ関東甲信の文化圏の祖先の生活を支えていたことは確実であろう。

(筆者 撮影編集)

ジオラマの土器は、早期前半の土器であることは放射性炭素年代測定でも明らかになっているが、関東の撚糸文系土器片も少量であるが見つかっている。私の家の近くの大塚遺跡でも撚糸文系土器片が出ている。ひょっとしたら土器というモノが関東から持ち込まれただけでなく結婚相手もやってきたかもしれない。

食べるために、子孫を残すために、10,000年前の縄文人は旅をした。しかし、人間の本能は食欲、性欲だけではない。もう一つ見神欲(けんしんよくDesiderium)も考えられる。神仏を渇望する欲望、大自然の中に偉大なものを求める欲望。それゆえに巡礼をし、それゆえに美しい高地に居を構えたりする。真善美を求める旅は今に始まったことではないのだろう。

 

「信州の縄文早期の世界 栃原岩陰遺跡」(新泉社 2011年)59P)

 岩陰遺跡には人骨が12体発掘されている。その中に大きな岩盤の下に炉を囲んで二人の幼児の遺体が見つかった。エゾエノキの実とカタツムリがそばに散らばっていたので、遊んでいる最中に落盤事故にあったのだろうか。母親などの嘆きは長い年月を越えて聞こえてくるようだ。その事故が契機だったのかはわからないが、縄文早期のある時点からこの岩陰は利用されなくなる。祖先達は新たな旅に出かけたのだろう。

(八島湿原 筆者撮影)

なお、「旅する縄文人」を執筆するにあたり、お忙しいなかでご協力をいただいた

藤森英二氏に深く感謝いたします。

次回は子抱き土偶1/2


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