生存から永遠の生命へ――教皇フランシスコ来日から一年


矢ヶ崎紘子(AMOR編集部)

昨秋、教皇フランシスコは「すべてのいのちを守るため」という標語を掲げて日本に来られたが、その直後に新型コロナウイルスの流行が発生し、多くの人の死が連日報じられることとなった。筆者もまた、埋葬の間に合わない棺が食品用の冷蔵車に積み込まれる様子や、大きな穴に流し込まれる沢山の棺、患者が死亡したらすぐに棺に転用できる段ボール製のベッドなどの映像を見て、もし、愛する人々がこの死者の中にいたら、そしてその死の原因が自分であったら、と大きな恐れと悲しみを感じた。「すべてのいのちを守る」ことは、このような状況では挫折してしまったかにも思える。

他方、医療資源が逼迫する中で、「わたしはもう十分生きた。よい人生だった。呼吸器を若い人に譲ってください」と言って、生存の機会を人に譲って死んでいった年配の人々の話と、同じような年齢の人々の「自分にはこのようなことができるだろうか」というつぶやきも聞こえてきた。このように他者の生に奉仕した人々は生存に挫折して死んだのではなく、生命を分け与えてなおも生きているように映る。

教会は、生存を超えた生命があることを示している。「神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストとともに永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神を『ありのままに』(一ヨハネ3・2)、『顔と顔を合わせて』(一コリント13・12)見るからです」(『カトリック教会のカテキズム』1023)。そして「この完全ないのち」が「天国と呼ばれ」ると教えている(同1024)。

「いのちを守る」という目的からすると、いま生きている人の生存の機会を守るということだけでなく、様々な事情で生物としての生存を終える人々が永遠の生命あるいは天国に移るように働く、ということが宗教の役割であろう。天国という完全な生命への道は、自己の生存に固執することではなく、「天国に行く」ことに固執することでもなく、他者に生命(生物としての生存と、それを超えた領域の双方)の機会を分け与えることの中にあると思われる。「すべてのいのちを守る」というのは、すべてのものが生きるために、いま生きている命を分け与え浸透させていくことだと解釈することができ、「無事でいてください」という言葉をかけることから、仕事による社会参加、ひとを危険にさらす機会を避けるために社会的距離をとること、さらに、生存の終わりがさらに幸いな生命への入り口になりうると語りかけることまで、様々な方法がありうる。その幸いは想像の及ばないものだともわたしたちは教えられている。

「神との幸せな交わり、キリストに結ばれたすべての人との幸せな交わりの神秘は、理解と想像をはるかに超えるものです。聖書はこれについて、いのち、光、平和、婚礼のうたげ、王国のぶどう酒、父の家、天上のエルサレム、楽園などの表象で語っています。『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された』(一コリント2・9)」(同1027)。

追記 ひとを生かすには、まず、ご自分が無事でいること! ここまで読んでくださった方、元気でいてください。;)

 


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