教皇ミサの舞台裏


宮越俊光(日本カトリック典礼委員会委員)

「教皇の頭にズケットを載せたら、それが拝領の歌を終わりにする合図だから」。昨年11月25日の東京ドームでのミサが始まる前、ステージ上でミサの進行係を務める私に、教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ師からこのような指示があった。

教皇儀典室入り口のポスト(写真提供:筆者。以下同)

教皇儀典室はローマ教皇庁の組織の一つで、教皇がバチカンのみならず世界各地で司式する典礼全般を取り仕切る役割を担っている。この儀典室に所属する10数名の儀典係の長として、教皇司式の典礼に関する最終決定を下すのが儀典長の務めである。昨年の教皇ミサは、準備段階から実際のミサの細部に至るまですべて教皇儀典室と日本側の典礼チームとの共同作業で執り行われた。日本で行われるミサであれば日本側主導で準備するもの、と思われるかもしれないが、教皇が司式する典礼は海外であってもバチカンの公式行事にあたるため、教皇儀典室が全体を管轄するのである。

ミサの具体的な準備は、教皇儀典室から送られてきた、海外またはローマ以外の教区への司牧訪問中に教皇が司式する典礼祭儀のためのガイドラインに従って行われた。このガイドラインには、祭壇や共同司式司教が乗るステージ(いわゆる内陣に相当)の広さ、祭壇や教皇が座る椅子の寸法、共同司式する司教や奉仕者の座席の配置など、詳細に指示された図面が添付されており、長崎と東京のステージはこの図面に基づいて設営された。ガイドラインでは、必要な祭具・祭服・備品などはもちろん、共同祈願の意向の数、使用する言語、聖体を保存する場所の設置、教皇用の香部屋に用意するもの、マイクロフォンやテレビカメラの配置など、実に細かく指示されている。日本でのミサの準備のため海外での教皇ミサの映像をYouTubeで参照したところ、中には必ずしも良い条件とはいえない会場でのミサもあった。にもかかわらず、大きなトラブルもなくミサが挙行されていたのは、こうしたガイドラインと長年にわたる儀典室の経験があればこそなのだろう。

この教皇儀典室との打ち合わせは、9月17日にバチカン宮殿内の儀典室の事務所で、と指定されていた。日本から提出したミサの式文案や会場の設営案などについて、儀典室の面々から厳しい指摘があるのではないかと心配していたが、日本側の9名に対して儀典室からは儀典長のみが出席し、式文の検討のときに別の担当者が呼ばれただけであった。それだけ儀典長に全権が委ねられているということなのだろう。教皇の椅子を3㎝低く、といった細かい指示があったものの、厳しい「ダメ出し」をもらうこともなく打ち合わせは終始和やかな雰囲気の中で行われた。

儀典長執務室での打ち合わせ

日本でのミサの懸案事項の一つは野球場での聖体拝領であった。とくに5万人を収容する東京ドームでは、共同司式司祭が祭壇から聖体をスタンド席まで運んで聖体を授与し、再び戻ってくるには時間が足りなかった。儀典長からは、聖体拝領にかけられる時間は最大で15分、できれば10分で、と言われていたからだ。最終的には、ミサ中に聖体を授与するのはアリーナ席の会衆のみとし、スタンド席の会衆にはミサの後、球場から退出する際に授与する方法が選ばれた。ミサでは儀典長から冒頭に述べたような合図があり、実際には12分ほどで聖体拝領は終了した。共同司式司祭が聖別前のパンを入れた聖体容器を持ってあらかじめ会衆席に座っておき、奉献文のときに自席でパンを聖別して授与すれば移動の時間が省けるだろう、という意見もあったがそれは認められなかった。それでは主司式者と共同司式者がともに一つの祭壇を囲む「しるし」にはならないからである。「共同司式は、祭司職が一つであること、いけにえが一つであること、そして神の民全体が一つであることを適切に表現するもの」(「ローマ・ミサ典礼書の総則」199)という観点からすれば当然の結論といえるだろう。

儀典長と日本の典礼スタッフ

日本での教皇ミサの特徴は、多国籍の会衆を想定して多言語を使用した点ではないだろうか。長崎のミサでは6言語、東京のミサでは7言語が使われた。教皇ミサなのでラテン語のミサを期待した人々もいたようだ。また、ミサの参加者からは「外国語の聖歌が多く、難しくて歌えなかった」という意見もあった。けれども、こうした多国籍の人々が主の食卓を囲むことは、現在の日本におけるカトリック教会の姿を表しているといえるだろう。多様な文化・歴史・習慣をもつ人々がともにささげた日本でのミサは、教皇の目にはどのように映ったのだろうか。

教皇訪日から1年が過ぎようとしている。教皇が残した多くのメッセージをじっくりと味わう1年になるはずだったが、年が明けてからは日常においても教会生活においてもコロナ禍への対応に明け暮れてしまった感は否めない。けれども、いまだ終息の兆しが見えないコロナ禍にある今だからこそ、「すべてのいのちを守るため」をテーマに実現した教皇訪日の意味をあらためて思いめぐらすことが大切ではないだろうか。

 


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