晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」2


前回の内容はこちらです。

 

3.映画「沈黙―サイレンス―」をどう観たか

さて、皆さんはこの映画をご覧になったでしょうか? 私がよく人から聞かされる感想は、「ここまでして信じなければならないのか」というものでした。

私の感想としましては、他に私が書いた文章がありますので、こちらを読ませていただきたいと思います。これは「ジャパン・ミッション・ジャーナル」という雑誌に寄稿した「映画『沈黙』を観て」というもので、これはマーティン・スコセッシ監督が、日本の観客が映画を見てどう思ったか、どういう反応があったかということを知りたいということで、企画されたもので、私もまた感想を求められたのです。これらの文章は英訳されて、スコセッシ監督も目を通しました。

 

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「映画『沈黙』を観て」

私は、今年司祭叙階30周年を迎えた、日本人のカトリック司祭です。幼児洗礼を受け、一般的なカトリック教会の教会学校で教えを受けました。子どものころは、カトリック信者だけが救われるというような原理主義的な教えに疑問を感じていましたが、10代後半に、第二バチカン公会議の普遍主義的な精神に触れて大きな影響を受け、司祭職への召命に目覚めました。司祭に叙階されてからは、苦しむ人々と共に生き、普遍的な神の愛の福音を語ってきました。

今、私は、「キリストの十字架と復活は、天の父の無限の愛の現れであり、すべての人はそれによってすでに救われている」という普遍主義的な福音を明確に宣言する司祭として、多くの人から支持されています。福音を聞いて、自らがすでに救われていることに目覚めると、大きな喜びと真の自由がもたらされます。「救われていることに目覚めて、救われる」のです。そうして救いを実感した人たちの中には、キリストの教会との一致を求めて、洗礼を受ける人も多くいます。つまり、「洗礼を受けたから救われる」のではなく、「救われていることに目覚めて洗礼を受ける」のです。前任の教会では、6年間で500人以上に洗礼を授けました。おそらく、今、日本で最も多くの洗礼を授けている司祭だと思います。

そのような一人の司祭として憂いているのは、現代のキリスト教に、今もなお、原理主義的な教えが色濃く存在することです。すなわち、「イエスへの信仰を告白しないと、救われない」とか、「キリスト教の洗礼を受けないと、天国に行けない」とか、「教えを棄てた罪人は、死後裁かれる」などという教えです。それらは、必然的に、人々に二元論的な信仰をもたらして、人々を分断し、不必要に苦しめます。そのような教えはまさに、イエスの時代のユダヤ教の選民思想であり、律法主義であり、分断主義、すなわちファリサイズムであって、イエスの教えはそれらを否定するものであったはずです。原理主義的なキリスト教の誤った教えによって、現代もなお、多くの人が「救われない」、「天国に行けない」、「裁かれる」などと思い込まされて苦しんでいるのは、事実です。私は、そのような多くの原理主義的な教えの犠牲者に寄り添い、彼らを、普遍主義的な福音によって救い続けて来ました。彼らは、誤った教えのために、どれほど恐れ、苦しみ、それゆえに心を病んでしまったことでしょうか。それは文字通り、地獄の苦しみであり、その地獄を生み出したのが他ならぬ、誤ったキリスト教であることを、どれだけの人が意識しているでしょうか。私は、イエスが、なぜ、あれほどまでに律法主義者とファリサイ派という原理主義者たちを厳しく批判したのか、その気持ちが痛いほどよくわかります。

『沈黙』を見て、最も感じたことは、これは、全く現代の話だということです。殉教の苦しみにせよ、棄教の苦しみにせよ、どちらも無ければ無い方がいいに決まっている苦しみであるはずですが、残念なことに、今の時代にあっても同じような苦しみが数多く存在します。原理主義的教義を信じさせられることによって自らの可能性を閉ざし、周囲と対立してしまうのは、現代の殉教です。逆に、そのような生き方が苦しくて、教えから離れざるをえず、しかしそれゆえに永遠の滅びに至るのではないかと恐れて生きるのは、現代の棄教です。どちらも、イエスの福音がもたらす喜びとは無縁な選択肢です。なぜ、このような野蛮な二元論がいまだに生き残っているのか。それは、キリシタン弾圧を始め、全世界の多くのキリスト教への迫害とそれによる殉教が、実はキリスト教自身の原理主義が招いた悲劇であることを理解していないからであり、それゆえにきちんとした反省もなされていないからです。

イエスが十字架を背負ったのは、人々を救うためであって、人々に十字架を背負わせるためではありません。もしも十字架を背負わなければ救われないのなら、捕まるときに「この人たちは去らせなさい」(ヨハネ18:8)と言って弟子たちを逃がそうとはしなかったはずです。むしろ、イエスは、試練や苦難という十字架をすでに背負っている私たちに、「重荷を負うものはだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。……私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」(マタイ11:30)と言って、私たちが背負っている十字架を軽くしてくれたのであり、それこそが福音の原点なのではないでしょうか。そうでないならば、イエスが私たちのために十字架を背負った意味がなくなってしまいます。パウロが言う通りです。「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」。(1コリ1:18)

イエスは、殉教したのではありません。教えのためでも掟のためでもなく、愛のために死んだのです。イエスは、私たちの殉教を望んではいません。彼の望みはただひとつ、彼が私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合うことです。明日は殺されるという前夜、イエスは弟子たちの前にひざまずいて、彼らの足を洗いました。「その汚い足で、私を踏みなさい」と言うかのように。使徒ペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。(ヨハネ13:8)

イエスは、こう言っているのではないでしょうか。「私は、あなたに踏まれて、あなたを生かすために死ぬのだ。私を踏まなければ、あなたは私と何のかかわりもないことになる」もしも、フランシスコ・ザビエルが、第二バチカン公会議の神学を知っていたならば、あのような、世界史に類を見ない残酷な迫害は引き起こされなかったと、私は断言できます。そして、現代という分断と排除の時代に、キリストの教会は自らの内なる原理主義に真剣に向かい合い、第三バチカン公会議にむけて、より普遍的な福音の教えを、言葉としるしで証ししていく義務があると思います。それこそは、殺されていったキリシタンたちと、殺されずに苦しみ続けた隠れキリシタンたちの犠牲を無駄にしないために、そして二度とあのような悲劇を繰り返さないために、現代の教会に課せられた義務です。映画のラストで、主人公の手のうちにあった十字架は、「実は彼は、キリスト教を棄てていませんでした」というような二元論的な描写ではないはずです。私はそれを、「普遍主義的信仰の道への尊い第一歩を踏み出した彼こそが、真のキリスト者なのだ」という、スコセッシ監督からの気高い宣言として受け止めました。

(”Ten Responses to Martin Scorsese’s Silence 1. Healing Fundamentalism” The Japan Mission Journal, Summer 2017, p.108-110)

 

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これを翻訳してくださったアメリカの神学者は、「これはまさしく現場からの声だ」と評価してくださいました。今も日本にいる、「踏むか、踏まざるべきか」の二元論で苦しんでいる日本人たちの現場に私もいるわけです。そこに横たわっているのは、原理主義的な恐ろしい教えです。原理主義は二元論的です。この魔の手から救い出すのは難しいことで、本当にパワーが必要で大変なのです。「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。その現場でいつも私は、「いいやあなたは、必ず救われる」と宣言してきたわけです。それでも、一度原理主義、分断主義に陥った者は、「晴佐久神父はああ言うけれど、あの教会に戻らないと私は救われないのでは……?」という思いから抜け出せず、戻っていくこともあるのです。そこに戻っても本当の心の平安がないにもかかわらずです。

そうした現場から私はこの映画を見るわけですから、あのキリシタンたちがそうした青年たちに重なって見えてきます。そうすると、「この教えを信じ、この洗礼を受けなければ地獄に落ちる」という原理主義的な教えは、「やっぱり、やってはいけないことでしょう」と思うわけです。残念ながら、フランシスコ・ザビエルの時代のキリスト教はこうした色彩が強いものでした。もちろんイエスに由来する普遍主義的な愛の教え、すべての者を救う神の教えもまた伝わっていましたが、両者がせめぎあっていて、はっきりしないまま、宣教師の中でもモヤモヤしたままに、受け継がれていたのです。時代的な制約もあるでしょうが、原理主義的な傾向がありました。

私はもしもタイムマシンで好きな時代に行けるのならば、戦国時代に行きザビエルと一緒に日本に上陸したいです。そして仏教の人と対話をし、神道の人と対話をし、信長と対話をし、秀吉と対話をし、神の普遍主義について語りたい。以前の「教会の他に救いなし」のカトリックではなく、第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」という普遍主義的な現代カトリックの教えをひっさげてザビエルが日本に上陸していたら、日本のキリスト教史はどのようになっていたか見届けてみたいのです。

キチジローは可哀想すぎます。自分を責め続けたわけでしょう? 雄々しく殉教していくキリシタンは立派だと思いますが、そんな思いはしないにこしたことはないわけです。決して、「殉教者は教会の種」などとは言えません。殉教などせずに済む、真の普遍主義のキリスト教の道を究めるべきなのです。そしてキチジローに、「あなたこそ、クリスチャンですよ。そんなあなただからこそ、イエス様はおられるのだから大丈夫、心配するな。あなたは救われている」と言ってあげたいのです。そんなキチジローは映画の中だけではなく、私の目の前に沢山いるわけです。他人事には思えませんでした。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 

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