晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」3


前回の内容はこちらです。

 

4.スコセッシが伝えたかったものとは

私はこの映画を試写室で観たのですが、この試写会はキリスト教関係者の試写会でしたので、私の他にプロテスタントの牧師先生たちも来ておられました。そのうちの一人が映画を見終わって私に、「映画、どうでした?」と聞くのです。おそらく、「これが晴佐久か」と思って、面白半分に反応を見ていたのでしょう。そこで私は思いの丈を、今申し上げたようなことを声高に言いました。「こういう話って、今もありますよね? こういう原理主義的な教えで、人びとを縛り付けている教会って沢山ありますよね?」と。私は正直、少々苛立っていたのです。映画が終わったときに、前に座っていた別の牧師さんが、「いやー、こんな迫害に合ったら、私は自分の信仰を守れるかどうか不安ですね」と言って、もう一人が、「そんなことがないように、お祈りいたしましょう」と答えるのです。

私はこの二人の感想を聞いて愕然としました。私は全く違う感想だったのです。私は自分の信仰が守れるかどうかなんてまったく関心がなくて、「この人たちを、どうやったら救えるだろうか」ということしか頭にありませんでした。「信仰が守れるかどうか」なんて、結局自分の話だからです。果たして、これらの発言に愛があるでしょうか。少なくとも、スコセッシが伝えたかったこととは違うと思います。スコセッシは、かつてこうした苛烈な現実があったということを取り上げながら、現代の分断の世界に問題提起をしているのです。スコセッシが映したのは、同時代人としてのキリシタンです。「あなた方は何を信じているのか」「愛はあるのか」と。キチジロー以上に苦しんで、うちのめされた主人公ロドリゴは、まったく完全な無力に陥って、そうしてはじめてイエスの愛、真の普遍主義的なキリスト教に目覚め始めた、というところで映画は終わるのだと思います。

スコセッシはアメリカのカトリック信者です。イタリアのシチリア島出身の移民の家に生まれています。以前若いころに、ちょっと挑発的なキリスト教映画を作っていたことがあり、しばらくカトリック教会から批判されていたのですが、彼自身、人生の苦しみの中で、宗教的な考え方も変わっていったのです。スコセッシは、カトリックの側の原理主義的な教え、「イスラームの人は救われない」といったような教えと直面して、思うところがあったようです。「本当の福音とは何か」「この時代を救えるのは何か」ということを問い、私の言う普遍主義的な宗教を希求しつつも、「この教えの他に救いはない」という原理主義的なキリスト教には距離をとっていたと思います。「宗教はどれも原理主義的なものばかりで、他の宗教を認めず、このままで戦争と暴力が世に満ちてしまうではないか。いったいどうすればいいのか」と、悩んでいたわけです。あれだけの賢い監督ですから、当然そのような思惟を持っていたわけです。

そういう時期に、日本を代表するカトリック作家である遠藤周作の『沈黙』を読んで感銘を受け、お互いカトリック同士でもある遠藤周作とスコセッシが会ったときに意気投合し、「この作品を必ず映画にする」と約束をしたのです。それから四半世紀以上経って、遠藤は天上の人になりましたが、スコセッシはついに遠藤との約束を果たしたのです。さすがはシチリア系、約束を破りません。イタリアのマフィア映画のようにです(笑)。

 

5.原理主義に陥ることなく、透明な思想同士の連帯を

私は以前より、縦割りの宗教ではなく横割りの宗教を提唱しています。縦割りというのは、「私はイスラームです」「私はカトリックです」「私はプロテスタントです」「私は仏教です」「私はヒンドゥー教です」などといった、宗教や教派、宗派別にとらえる方法です。原理主義的な傾向というのは、どの宗教の中にもあるもので、各宗教の中にグラデーションがあるように思います。どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。ここに愛はありません。

カトリックは1960年代の第二バチカン公会議を経て、普遍主義的な透明感のある教えを極めようとしていますが、その一方で、その反動からか、「教会の他に救いなし」を地で行くような原理主義的なカトリックもまたあるように見えます。しかし大多数は、透明に近いカトリックであると信じたい。透明になると横同士つながることができるのです。対話することができるのです。見通しがいいからです。一緒に物事を見たり考えたりすることができるわけです。各宗教の透明な者同士の連帯が生まれてきます。いわゆる横の線です。これが私の言う横割りの宗教です。ある意味、この横の線で見てみると、同じ教派でも、この透明と黒は別の宗教のように見えます。この透明な者同士の連帯、普遍主義同士の連帯をきちんとやっていけるようにするのが私の仕事であると思っていますし、またイエスこそがこうした普遍主義の徹底をやっていたのではないでしょうか。

パウロも「ユダヤ人もギリシャ人もない」と言っていますが、「主人か奴隷か」「男か女か」という二元論的な縦の線に囚われるのではなく、「皆、神様に愛されている、赦されている」という横の線を大切にしましょうということなのです。決して、宗教を透明と黒とに二分するのではありません。透明に近い思想の人たちは、暗黒な原理主義に苦しんでいる人たちを救い出さなければならないのです。黒から透明に近いグラデーションに近づけなければなりません。イエスはそうした、透明へと向かうベクトル、普遍主義へと向かうベクトルを示しています。私はそれが愛だと考えています。普遍主義者が原理主義者を救わなければ、ますます原理主義が世の中に増えて、すべての人を敵味方に分ける二元論的な発想が世を支配し、しまいには核ミサイル合戦になって世界は終わってしまいます。そうした破局を防ぐのが、普遍主義者の使命だと考えています。皆さんも、普遍主義の同志、レジスタンス、あるいは「福音家族」として、ともに闘いましょう。

(了)

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 

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