晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1


2017年5月28日、上智大学のホームカミングデイであるオールソフィアンズフェスティバル2017が開催され、この春より運用されているソフィアタワーにて晴佐久昌英神父の講演会が行なわれました。2013年より毎年恒例となっているこの講演会ですが、今年のテーマは「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」でした。その内容を3回にわたってお届けします。

 

1.ソフィアタワーにて

私は色々なところに講演に呼んでいただいていますが、このオール・ソフィアンの会には、毎年呼んでいただいており、嬉しく思っております。正直ここが一番落ち着くのです。また帰ってきたという気持ちです。

恒例の会場となっていた上智大学の3-521という教室は、私にとって思い出深い教室で、神学生時代の私がいつも爆睡していた教室なのです(笑)。それで来てみるとどこですか、ここは(笑)。会場は変わっており、ソフィアタワーという名前がつけられている建物の一階大ホールです。そりゃ綺麗なのだけど、慣れ親しんだ会場ではないので、「あてが外れたなあ」という思いです。

晴佐久昌英神父

先週私は、上野の教会から散歩に出かけて、上野公園の東京都美術館でのブリューゲルの展覧会に行ってまいりました。「バベルの塔」という絵を観てきました。これで二度目です。あのまがまがしき塔をつくづくと眺めておりました。「神のようなものになりたい」「有名になりたい」と思って、あの有名な塔を建てたのです。神はそれに怒り、人間同士の言葉を通じなくさせ、コミュニケーションできなくしたのです。絵を観て改めて、人間の業の深さ、「もっともっと」という欲の深さについて考えさせられました。

この「塔」にまつわる人間の愚かな話を、午前中ミサで散々話してからここにきますと、なんと会場が「ソフィアタワー」となっているではありませんか。なんということでしょうか! カトリック大学が自分の敷地内に「タワー」を建てて喜んでいるとは。そして中には大手銀行の本店を入れているなんて。これは事実です(笑)。

私は、こういうことなのだろうと信じたいと思っています。それは、世の中は本当に大切にすべきという優先順位を間違っている。何でも「金金」となっ てしまっていて、「天にまで届く塔を建てよう」という傲慢な世の中になっているではありませんか。特に金融の世界では、金持ちばかりを優遇して、貧しい人ばかりを踏みにじっているわけです。そんな現実の中で、さすがはカトリックの上智大学、大手の銀行をあえて身内に加えこんで、それを神の愛に満ちた銀行に変えていこうとしているのではないでしょうか(笑)。あおぞら銀行は、1Fロビーに、貧しい人にお金を貸すデスクを作ることでしょう。それがカトリック大学の敷地内にある銀行の姿です。来年、この講演に来た時に、チェックしたいですね(笑)。そうでなければ、「くろくも銀行」と呼んであげたいです。ちょうど、ブリューゲルの「バベルの塔」にかかっている黒雲のように。あおぞら銀行の今後に心から期待したいと思います。

 

2.殉教か、殉愛か

私、晴佐久神父のとりえは、優先順位を間違えないということを優先順位のトップに持ってくるということです。司祭生活30年、いろいろ試行錯誤してまいりました。何が優先順位のトップかというと、もちろん愛に決まっているのだけど、何か普遍的な愛、普遍主義的な愛を優先順位のトップにおいて行動しています。

最近、あるプロテスタントの教会に通っているという青年が私の教会の入門講座にやってきました。これは決して、プロテスタント批判をしたいとかそういうわけではなくて、カトリックの教会にもこういう傾向があるかもしれないということを前提とした上で言うのですが、その青年は牧師先生から叱られたというのです。それは日曜日の礼拝に出席しなかったからだそうです。でもそれは、彼は地元の商工会議所の集まりに行っており、地元を盛り上げるためと、コスプレーヤーってご存知でしょうか? いろいろなキャラクターの格好をするあれです。町おこしのイベントのために、コスプレをやっていたそうです。そういったものに携わっていたから、日曜日は教会に行けなかったそうなのです。

それを知った牧師先生はこう言ったそうです。「そんな所に君は行ってはいけない。あの人たちのところにイエス様は行かないよ。彼らは救われない人たちなんだ。あなたはこうして、救いの教会に来ているんだから、日曜日はあんなところに行かないで、教会の礼拝に来なさい」と。それで、彼は苦しみました。地元の仲間たちがいる、地元を盛り上げたい、応援もしたい、自分の仕事でもある。しかし牧師先生は言うわけです。「あの人たちは救われない人たちなんだ」「あの人たちのところにイエス様は行かないよ」。

その青年は苦しみぬいて、そのことを友人に相談しました。その友人は、今年の春私の教会で洗礼を受けた人でした。そのいきさつを聞いて、「うちの神父さんだったらそのようには言わないよ。一度うちの教会に来てみたら?」と言って、上野教会に連れてきました。そして私は彼に会いました。その青年は、びっくり仰天したわけです。言っていることが全く違うのですから。私は彼にこのように言ったのです。「あの人たちのところにイエス様は行かないよ、イエス様は自分たちのところにいるよ、などと言う人のところにイエス様はいないよ」と。そりゃイエス様は、どこにでもいると言えばいらっしゃるのだけど、「あそこにはいない」と、人が決めつけてしまってはいけないわけです。

上智大学ソフィアタワー(6号館)の101号室には、約350人が集まった

今日のミサの福音書の箇所、皆さん聞きましたでしょ? マタイによる福音書の最後の一行です。「私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる」(28章20節)。これは、すべての人に語りかけたイエスの福音です。これは、「OOのところにはともにいるけど、××のところにはともにいない」といった話ではないのです。イエスはすべての人を選んでいるとも言えるわけなのです。マタイの最後で、すべての人を前にして、「世の終わりまで、あなたがたと共にいる(インマヌエル)」とイエスは宣言しているわけです。実に、美しい福音です。この一行を心の糧にして、この苦難の時代を、このバベルの町を生き延びようではありませんか。

本来ならキリスト教はその彼に対して、「君も地元のために、頑張っているんだね。私たちが教会でうまくいくように祈っててあげるから、安心して行っておいで」と言うべきではないですか? それが愛なのではないでしょうか。ガチガチな律法主義に愛はありません。「愛がなければ無に等しい」ということは、優先順位のトップに来るものです。「その人に何がしてあげられるだろうか」と考えることもそうです。その先にあるものが殉教でしょう。ヨハネによる福音書15章13節に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。しかしこれは、殉教、すなわち「教えに殉じた」のでしょうか? 違うと思います。これは「愛に殉じた」のですから、「殉愛」と言えるものでしょう。

たとえばアウシュヴィッツで、あの有名なポーランド人のコルベ神父が死にたくないと泣き叫ぶ他の人の身代わりとなって死にました。そのことから殉教者と言われますが、これも厳密には、「教えに殉じた」のではなく「愛に殉じた」と私は思います。掟があるからいやいや身代わりになったのではありません。泣き叫ぶユダヤ人に対して、自分の生命よりも愛を優先順位のトップにしたからこそ、身代わりになったのでしょう。

イエスは殉教したのですか? イエスの死は殉教ですか? 「掟に殉じた」のですか? やはり違うでしょう。「愛に殉じた」と思います。弟子たちを愛し愛し愛しぬいたゆえに、「お前たちを生かすために俺が死ぬ」というのがイエス様がなさったことです。決して、イエスは弟子たちに殉教を求めないはずです。「神は殉教を望んでおられるか」という問題提起に対して、本題である映画「沈黙―サイレンス―」について考えていきましょう。

つづく

(構成=倉田夏樹:南山宗教文化研究所非常勤研究員/写真=石原良明:AMOR編集部)

 


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