ユダさえも救われる


ルカ小笠原晋也(聖イグナチオ教会所属信徒)

教皇フランシスコは,今年 1 月のあるインタヴューで,地獄に関して問われて,こう答えている:「わたしは,こう考えることを好む:地獄はからっぽである」— それはカトリック教会の教義ではなく,あくまで彼の個人的な考えであると強調しつつ.でも,パパさま,主を裏切ったイスカリオテのユダはどうなるのですか?ダンテも,すべてが凍りついた地獄の底で彼が永遠にサタンの口に捕えられたたままとなっている光景を描いているではありませんか?その問いには,教皇は既に答えている — 2017年のあるインタヴューにおいて.そこにおいて彼は,12世紀に建設されたヴェズレ大聖堂のある柱頭に施された浮き彫りを見るよう,我々をいざなっている.その柱頭のひとつの側面には,首を吊ったユダが描かれている — マタイ福音書 27:5 のとおりに.しかし,もうひとつの側面に描かれている光景は,こうである:善き羊飼いキリストがユダを肩に担いで連れて行く — 彼を救済するために;そして「そのときキリストは共謀者の微笑みを浮かべている」と教皇は指摘する.つまり,ユダの裏切りは神の計画に協力するものであったのだ;そして,その計画とはこうである:神が,神の唯一の息子を贖罪のいけにえとして神自身に献げることによって,人間たちすべてを贖い,救済する.ユダは,そのようなイエスによる救済論のコペルニクス的転回の協力者であったのだ.そして,そのためにこそ,イエスは彼を 12使徒のひとりとして選び出したのだ.

ともあれ,ユダさえも救済される — それは,何と大きな希望を我々罪人に与えてくれることか!実際,「イエスを引き渡したユダは,イエスが断罪されたのを見て,悔いて (…) こう言った:わたしは,罪なき者の血を引き渡したことによって,罪を犯した」(Mt 27:4-5). つまり,彼は,自分が罪を犯したことを認め,悔いたのだ.であれば,イエスは — 彼に属する者たち(父が彼に委ねた者たち,すなわち,人間たちすべて)を「愛の完成にいたるほどに」(cf. Jn 13:1) 愛したイエスは,すなわち,彼らを神の無限の愛を以て愛したイエスは — なぜユダを赦さないだろうか ? ; なぜなら,「彼に属する者たち」のなかには,当然,ユダも含まれているのだから.主を引き渡したユダさえも赦され,救われる — それは,神の限りなき慈しみの表れである.

ユダは赦され,救われた — そう語ったのは,教皇フランシスコが最初ではない.第 2 ヴァチカン公会議の精神を先取りしていたと評価されている Primo Mazzolari(プリモ マッツォラーリ)神父 (1890-1959) は,1958年の聖木曜日(4月 3日)のミサ説教において「我らの兄弟ユダ」について,こう語っている(以下は彼の説教の要約):

ユダは,我々の兄弟である — なぜなら,我々も幾度も主を裏切ってきたのだから.主は,ゲッセマネで裏切りの接吻を受けたとき,ユダにこう答えた:「友よ,あなたは接吻により人の子を引き渡すのか」.その「友よ」という呼びかけは,主の愛の無限の優しさの表現である.主は,最後の晩餐の席で「わたしは,あなたたちをしもべとは呼ばず,友と呼ぶ」と言った.我々は,善良であろうとなかろうと,忠実であろうとなかろうと,主の友である.我々は,キリストの愛を裏切るかもしれない;だが,キリストは決して我々を裏切らない.我々が友と呼ばれるに値しないときでも,我々が彼に対して背くときでも,我々が彼を否むときでも,主にとって我々はいつも主の友である.そして,ユダも主の友である — 彼が主を裏切るときでさえ.

だが,どうしてユダは — 主が選んだ 12使徒のひとりであるユダが — 主を裏切ったのか?そこに悪の神秘がある.我々も,自分自身のなかに悪を見出さない者は,誰もいない.そして,なぜ我々は悪を成すのかを,どのように悪は我々のなかに入ったのかを,我々は知らない.福音記者ヨハネは,こう言っている:「そのとき,サタンがユダのなかへ入った」(13:27). サタンは,我々のなかから神を消去する.サタンは,ユダのなかで作用した;そして,我々のなかでも作用する.ユダは,主を売った — 僅かな利得のために.我々も,良心を売っても,僅かなものを得るだけである — それによって失うものは計り知れないのに.

イエスとふたりの盗賊が十字架に架けられるとき,ユダは樹で首を吊る.哀れなユダよ,哀れな兄弟よ ! — さまざまな罪のうちで最大のものは,キリストを売る罪ではなく,絶望する罪である.盗賊たちは,復活の希望のうちに死んだ;他方で,ユダは無の絶望のうちに死んだ.

しかし,主が彼に「友よ」と呼びかけたとき,その言葉はユダの哀れな心へ入らなかっただろうか?最後の瞬間に,その言葉を彼は思い出さなかっただろうか?主はそれでも彼を愛しているということに,彼は気づかなかっただろうか?そのはずはない.それゆえ,ユダは,ふたりの盗賊とともに天の国へ入った最初の使徒である.それが,主の憐れみの偉大さである.

我々は皆,我々自身のうちに,哀れなユダを有している.だから,主にこう願おう:わたしたちにも「友よ」と呼びかけたまえ.それが,復活祭の恵みであり,喜びである.キリストは,我々を愛しており,我々を赦してくださる;彼は,我々が絶望することを欲しない;なぜなら,彼にとっては,我々はいつも彼の友であるから.

 


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