縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~10.生命を頂いて生きる


森 裕行(縄文小説家)

10.生命(いのち)を頂いて生きる

  食事と排泄は私たちが生きものであることを実感する行為である。最新の生物学の成果によると。人は不要になった細胞等を破壊し排泄する。そして、それを補うかのように、食べ物は消化器により分解され、DNARNAで必要な細胞に再生されていく。ここで間違えてはならないのは、食べ物は自動車におけるガソリンのようなものではなく、身体の血となり肉となっていくもののようだ。「レジリエンスの時代」(ジェレミー・リフキン著、柴田裕之訳、集英社2023年、208P)によると、「一年のうちに、私たちの体のなかにある原子の90%以上がなくなり、新しい原子に取って代わられている」。生命とはなんと不思議なふるまいをするのか。

 さて、私たちの食物について見てみよう。魚や鳥、牛肉や豚肉、米や小麦、果物や野菜、塩……その多くは少し前まで生きていた生き物で、死んで私たちの糧となる。現代人は食べ物を食料資源と割り切り、生き物を食べることに心を痛める人は少ないようだ。

 ところで、縄文時代では以前誕生土偶についてお話したように、食物の神様の神話が信仰されていたようだ。1300年前に編纂された記紀に残されたウケモチノカミやオオゲツヒメの神話を手掛かりに、縄文時代の遺物と照らし合わせると、食物が神の死と再生からもたらされたという物語が浮かんでくる。祖先たちは食物の神・地母神を祭儀の中で実際に殺害したり、神聖な食物を共食することを大切にしたようなのだ。

 しかし、何故祖先はこのような信仰を大切にしたのだろうか?縄文時代は環境破壊もなく自然が保存されていたと想像する人は多いが、実際はどうだったのだろう。日々の煮炊き用の大量の薪、夥しい土を掘る道具、縄文中期には高度な狩猟採集文化が花開いていたことは間違いない。さらに、「日本の土」(山野井徹著 2015年築地書館)によれば日本列島を覆う表土の2割を占めるクロボク土の分布は縄文遺跡とも重なり、縄文人が一万年かけて作り出した土壌ではないかとのこと。山焼きや野焼きが原因の微粒炭が多く含まれているのは確かである。大地に火を入れわらびなど山菜を取りやすくする行為は、地母神に対する負い目となり、現代でも通じる深い信仰を形成していったのではないだろうか。

「鳴る土偶」(八王子市郷土資料館にて筆者撮影)

写真は八王子市楢原遺跡の約5000年前の誕生土偶であるが、この土偶と同じような人の誕生や食物神に関わる土器(顔面付き土器)が、同時期の中部高地や西関東でよく出土する。深鉢土器なので、土偶のように底に産道にあたる穴はないものの、口縁部が産道に変わり、深鉢は女神の胴体と化し、新たに誕生する神の恵を与える姿と変わる。

八王子市 中原遺跡 人面装飾付き土器 八王子市郷土資料館にて筆者撮影

こうした土器はハレの日に使用したのだろう、村人全員に配れるような大型の顔面把手付土器であることが多い。そして、村をあげて神聖な食事を共にし、アイデンティティを確かめ、村人の幸せを祈ったのだろう。さて、こうした土器は誕生土偶と同じように、女神の殺害の神話と関係するのだろうか、壊されることが多いようだ。中原遺跡の人面装飾土器のように深鉢までそっくり出てくることはまれで、顔面把手の一部だけがかろうじて出土したりする。

23年前のことだが、日野市郷土資料館の企画展「縄文の顔・日野の顔」で忘れられない両面顔面把手に出会った。

このように均整が取れ、愛くるしい女神像は見たことがなかった。残念なのは深鉢部分が見つかっていないことであるが・・。これについて、ここで考察してみよう。

気になるのは両面の顔をどのように解釈するかということである。今までも国立市の南養寺遺跡の人面把手付深鉢や、最近では座間市蟹ケ澤遺跡の両面顔面把手も拝見したか、漫画でも有名な異形の両面宿儺(すくな)は、両面だけでなく手が本で人民を苦しめ最後には征伐されたと、日本書紀の仁徳天皇65年の条に出てくる。しかし時代的に合わないことと、縄文時代の約5000年前の誕生土偶やその系統の土器は、出産時の緊張した表現はあるものの、攻撃的な性格を帯びてないのではないだろうか。設楽博己氏は「顔の考古学」(吉川弘文館 2021年)の出産土偶の解説で、「このようにみてくると、この緊張感にあふれた表情は、のちの時代の偶像や絵画に見る威嚇表現ではないといってよい」としている。10,000年以上戦争をしなかった縄文時代の祖先の精神の現れともいえる。

では、表と裏の顔は何か。その一番のヒントは同じ時代の出産土器にある。ご覧のように母が子を産んでいる土器があるが、親子の顔はそっくりである。そう考えると、両面顔面把手の表裏の顔も似ており親子の可能性は高まる。ただ、日野の両面顔面把手は眼がほぼ水平で、設楽氏が出産時の緊迫し眼がつり上がっている相とは異なっていることは確かである。

北斗市 津金御所前遺跡 顔面把手深鉢 模造品 山梨県立考古博物館にて筆者撮影

(歴民博研究報告の37集(特集 土偶とその情報)1992 安孫子昭二、山崎和巳「東京都の土偶」より)

 そこで、誕生土偶の中の子抱土偶の表情を調べてみると母の像は壊されてしまっているが子供の表情/眼の角度が日野の両面顔面把手の眼の角度に近いことに気づいた。

母子像を土器の口縁部にどのように表現するかだが、両面顔面把手の形であると、内側の口縁部側の造形もシンプルにでき実用的にも引っかからず便利。さらに両面顔面把手の場合中空であるので、母子の両面の眼と口から相互に光が届く。それが不思議に母子一体感、そして神像を見る人と神像との一体感を生むように思うのだがいかがであろうか。

共食の祭儀の中で、共同体の一致を確認する。それは、何か時空を超え、現代の私たちにも響くようだ。

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

two × one =