カトリック『を』教えるのではなく、カトリック『で』教える~客観的に捉え、主観的に考えさせる~


星野匡邦(暁星中学高等学校 宗教科 社会科 教諭)

男子校高校生に向けた宗教の授業では、可能な限り教科横断的な題材(現代社会の内包する課題や時事問題)など、生徒に身近なトピックを選ぶように心がけています。社会と遊離した専門的過ぎる知識ではなく、いまを生きる彼らの学際的な興味や関心に、バックボーンとしてのカトリック『で』触れ、必ず何かしらの問題提起(問い)をすることを、根本的なねらいとしています。

一方で、聖書・聖句や、典礼歴に合わせて待降節や四旬節の話をする際には、自らの実体験や感動したエピソードを交えて話すことを多く取り入れるようにしています。

復活の出来事は、降誕と並んでカトリックにとって最も重要な寄る辺であると同時に、即物的であることが強要される現代の高校生には、(特にからだの復活は)かなり受容し難いエピソードの1つなのかもしれません。

私は復活を扱う授業では、2つの点に注目してもらうようにしています。

1つ目は復活という出来事を丁寧に確認していくことです。史的イエスの生涯を簡単な時系列で紹介したあと、復活前と復活後の弟子たちの言動の変化について、生徒に聖書の該当箇所を探させたり、既習の知識などから挙げさせたりしながら、出来るだけ客観的に比較させます。

わずか2年半のイエスの宣教とその後約2000年に渡る使徒継承による宣教の比較、復活前後における劇的な使徒たちの言動や態度の変化の比較。

それらを通して、その時その場所で明らかに"何か劇的で決定的な出来事"が起こっているということをしっかりイメージしてもらうように意識しています。

そして2つ目は、その決定的な出来事は果たしてどのような出来事だったのか、生徒各々に主観的に考えさせることです。

『宗教的な問いは極めて主体的なものです。そして正解を与えられるよりも、痛み迷いながら問いつづけることにこそ意味があります。誤解を恐れずに言えば、従来型の宗教の授業では、個々の生徒のニーズは画一的に扱われ、模範解答が与えられがちになります。生徒の多くは、聖書箇所についての模範解答を身につける代わりに問いを発しなくなります。』

2002年の「そよかぜ」(カトリック校宗教教育交流誌)に漆原隆一先生(横浜雙葉)が寄せている文章です。

スーザン・バーレイの『わすれられない おくりもの』等の絵本やAllegory(寓意)を含む教訓的な昔話を紹介し、その出来事のイメージを膨らませるリードはします。

しかし、所謂カトリックでは○○であるといった一方通行的な模範解答よりも、「なぜだろう?」「どうしてだろう?」といった問いや驚きで、生徒の頭や心が満たされるように努めています。

スーザン・バーレイ作・絵/小川仁央訳『わすれられないおくりもの』(評論社)

これから彼らは人生を歩む中で、様々な不条理(出会わないことを願いつつ、しかし必ず出会うであろう)に出会い、いつか立ち止まらされてしまう時があるかもしれない。

そんな時に一番"不条理に効く"のは、彼らがこれらの問いや驚きから自ら見出だした、彼ら自身の心の深いところで出した答えや内発的動機ではないかと思います。

そもそも全ての教科の授業が、彼らが不条理や困難に出会った時へ向けた種蒔きとも言えますが、時に宗教の授業は、そんな常備薬的な存在であるべきです。

「ちいさなひとびとのひとりひとりを見守ろう ひとりひとりの中にキリストはいる」(「ちいさなひとびとの」典礼聖歌400番 作詞作曲 高田三郎)に倣い我々は、生徒ひとりひとりが自分にとっての答えや考えを見出だせるように、様々な題材を通して共に悩み、見守り、問いかけ続けてゆくことが肝要なのだと思います。

そして、それは漆原先生の言葉をお借りするならば、カトリック『を』教えることではなく、カトリック『で』教えるということなのではないでしょうか。

 


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