弟子たちが復活したイエスと出会ったこと


土屋 至(聖パウロ学園高校宗教科講師)

 高校1年生の生徒とともに新約聖書のイエスの復活の場面を読みました。閉め切った家の中に突然現れた場面や、エマオで弟子たちに現れたところや、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちに現れた場面を読んで、その共通点を生徒たちに聞いてみました。

  1. イエス女性たちの前に現れる(マタイ28章1〜10節)
  2. マグダラのマリアに現れる(ヨハネ20章11〜18節)
  3. エマオで弟子たちに現れる(ルカ24章13〜35節)
  4. イエスとトマス(ヨハネ20章24〜29節)
  5. ガリラヤで弟子たちに現れる(ヨハネ21章1〜14節)
  6. まずケファに現れ、ついで12人に現れた(1コリント15章5〜8節)

 

――ここを読んでなにか共通点に気がつかない?

すると生徒たちは

「いきなり現れてまたすぐに消えてしまうなんてなんか幽霊みたい」
「ずっと一緒にいたはずなのにそれがイエスとなかなか気づかないのはヘンでうそっぽい」
「親しくしていたうちわの弟子たちの前だけでなく、もっと誰もが認められるようなところに出現したらよかったのに」

とか口々に言い出しました。それを聞いて私もなるほどと思いました。そういわれてみると確かに復活したイエスが現れた場面は、「幽霊みたい」で「なんかヘン」で「うそっぽい」のです。生徒たちの率直な指摘にムキに反論するのはおとなげないので、こう聞くことにしています。

 

レンブラント『エマオの晩餐』(1648年 パリ ルーヴル美術館所蔵)

――そのほかにここを読んで気づいたことはない?

「イエスはまず女性たちの前に現れる。ペトロをはじめとする男たちはなかなか信じようとしない」

 

――女性たちが復活したイエスと出会ったという話を聞いても、男の弟子たちは家に閉じこもってしまい、復活したイエスに会いに行こうとしないんだよね。何を恐れていたんだろうか?

「イエスの遺体を持ち出したということで捕まることを恐れていたみたい。つまりイエスの復活したことを聞いてもちっとも喜んでいない。」

 

――復活したイエスと出会ってもそれがイエスだとはすぐにわからない。ずっとイエスと一緒にいたのにわからないのはたしかにヘンだよね。ではなんでそれがイエスだときづくのかな?

「イエスの傷跡を見て触れて」
「エマオで出会った弟子たちは食事の時にパンを割くのを見て、それがイエスだとわかる」
「ガリラヤ湖では船の右側に網を投げ入れなさいといわれてそれがイエスだと気づく」
「マグダラのマリアはマリアと呼ばれて気づく」

 

――復活したイエスと出会った弟子たちはどう変わったかな? Before と After の違いだね?

「まずエルサレムに戻ってほかの弟子たちに伝えようとした。」
「失望して国に帰ろうとしていたものもまたエルサレムに戻って、あるいはガリラヤに行ってイエスに会いに行く。怖くて家に閉じこもっていた弟子たちではない」
「イエスが復活したことを伝えるべく教会を作って世界へと派遣される」

 

ロバートツンド『エマオへの道』(1877年頃 ザンクト・ガレン美術館所蔵)

――たしかにイエスが復活したということを歴史的な事実として証明するのは難しい。聖書以外にその場面を著している歴史的史料もないし。しかし、イエスが復活したと言いふらしていた弟子たちがいたこと、そしてその弟子たちはイエスが十字架上で死んで失意のどん底にあった、なかには故郷に帰ろうとしていたものもいたくらいなのに、何かがあって彼らが再び希望を取り戻して集まりだし、教会をつくってイエスの教えを広めようとしたことは否定できない歴史的事実なのです。弟子たちを失望から希望へ変えた“何かおおきなできごと”が起きたのです。それを聖書では「復活したイエスとの出会い」という宗教体験だとしているわけです。

 

生徒たちがこの説明を聞いて少しだけ納得してくれるのはありがたいことだと思います。

 


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