縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか〜2.東京のストーンサークル


森 裕行(縄文小説家)

三輪山を麓から眺める(筆者撮影)

鏡餅が縄文時代の蛇信仰と関わりが深いというお話を前回したが、神奈備型などの山は神山として昔から大切にされていた。有名な神山は三輪山だと思うが、近くの奈良盆地南部の大和三山もそうである。そんな奈良の神山の景観に心酔していた私が東京のストーンサークルそして縄文にどのようにして捕らわれたか。そのご説明をしてみたい。

2.東京のストーンサークル

筆者はU先生の私塾で『生き甲斐の心理学』を20年以上学んでいる。先生はかつて比較宗教学や文化人類学が盛んな欧米で臨床心理学を学び、イギリスで学位を取られた。そして、日本人特有のこころの原型(もののあはれ、けがれとみそぎ、恥の文化、甘えの構造、わびさび、幽玄美)をしっかり学ぶ重要性を説かれ、天武・持統朝のころ(7、8世紀)の日本の歴史や文化を楽しみながら研究するようになった。私だけでなく学友たちも奈良や飛鳥に心酔するようになり、大和三山や吉野まで訪れる奈良旅行を2013年にU先生を中心に楽しんだ。そのころには、三輪山や二上山にも登り、今考えれば縄文に嵌る前触れだったのだろう。

三輪山の麓より大和三山を望む(筆者撮影)

 7、8世紀の日本は唐・新羅に白村江の戦いで敗戦し、壬申の乱で東西を二分するような内乱や、南海大地震までがあった時代であるが、それを乗り越え「日本」という律令国家が成立した大切な時代である。

 さて奈良の神山と関係の深い額田王(ぬかたのおきみ)のことについて。額田王は名歌をたくさん残しているが一番好きな歌を一つ。

「君待つと わが恋ひをれば わが屋戸のすだれ動かし 秋の風吹く」(万葉集4-488『万葉集歌人集成』中西進辰巳正明日吉盛幸著、1990年、講談社)

蛇に縁の深い神山の三輪山につながる額田氏は、おそらく縄文からの伝統を深く残していたかもしれない。このすだれは縄文時代からあると思われ、秋の風の風も魂や聖霊の隠喩としても使われることもあるので奥深さを感じる。

帝釈峡博物展示施設 時悠館 帝釈名越岩陰遺跡展示 縄文後晩期(筆者撮影)

そんな額田王は激動の時代を生き抜き長生きしたとも言われるが、次の図のように複雑な立場であった。天智天皇の大和三山に結びつけた有名な歌が生まれたのも単純な理由だけではないのだろう。


「香具山は 畝火ををしと 耳成と 相あらそいき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」(万葉集1-13『万葉集歌人集成』中西進辰巳正明日吉盛幸著、1990年、講談社)。

そんな奈良に心酔していた2014年。近くの東京都埋蔵文化財センターのチラシに出会う。「縄文人の見た風景と祈りの場探訪―ストーンサークルを見に田端遺跡に行こう!-」。神山に向かい祈る縄文人のイラストまであり、応募したところ運よく当選し人生を変えるほどのツアーに参加させていただいた。

田端環状積石遺構(ストーンサークル)は、京王線多摩境駅から歩いて5分の遺跡。

現在は、遺構は埋め戻され精巧なレプリカの展示となっている(筆者撮影)

この遺構は1968年に故・浅川利一氏が中心となって発掘された。まず3800年~3500年前の墓域が確認され、その後東京都史跡に認定される。浅川利一氏は元玉川考古学研究所所長で「縄文酋長オピポー」(玉川考古学研究所、1996年)を執筆されていらっしゃる。銚子に近い余山貝塚の縄文晩期の縄文小説と論文であるが考古学や魂について深く考えさせられるご著書である。さて、この遺跡について安孫子昭二氏の「東京の縄文学」(222227P)(之潮、2015年)、季刊Collegio(63)(之潮、2017年)を参考に要点を述べてみたい。

この遺構は長径9m、短径7mの楕円で世界遺産に登録された大湯遺跡の環状列石(最大径52メートルなど)と比べると遥かに小さいが、大湯遺跡と同じような石組が見られ、出土品から3500年前から2700年前までの縄文後晩期に使われた遺構であることが分かってきた。さらに、当時としては大規模な造成工事が墓域と環状積石遺構のために成されていたことがその後の調査で判明した。斜面を調整し、斜面上部の湧き水を逃がす溝の工事がなされている。それは、はっきりこの場所を意識していて強い意思が感じられる。しかし、何故この場所に作られたかは謎であったが、風水研究家であった松本司氏により、冬至の日が丹沢山系の最高峰である蛭ケ岳頂上に沈むことが確認された。冬至の日は頂上付近に後光が差すように沈む。

冬至の少し前のため後光が右に寄っている(2022年12月16日筆者撮影)

冬至(1222日ごろ)は日本では太陽がもっとも南よりに沈み日照時間が短くなる日であり、同時にこれから日が長くなる希望の日でもある。「死と再生」の意味が冬至には隠れていて、正月やクリスマスなど世界の祝日と深く関係している。おそらく、その起源は極めて古いのだろう。

2014年以降、毎年冬至の日に田端遺跡で夕日を見に行くようにしているが。その美しさにあずかれた日は魂が喜び、心がふるえる。この感動は現代の私たちだけでなく、蛭ケ岳と田端遺跡を結ぶ線上、同じように冬至の日没が観測できる場所には、有名な多摩市の稲荷塚古墳、それから大国魂神社があることから、縄文時代以降の時代の人々も意識していたに違いない。

多摩市稲荷塚古墳 八角墳で有名(筆者撮影)

冬至、夏至、春分、秋分(二至二分)の日の出や日の入の景観研究は考古学者の小林達雄氏により2002年に「縄文ランドスケープ」で発表され、またカシミール3Dや国立天文台のMitakaなどシミュレーションソフトも充実してきていて、私のように一般市民が楽しめる状況になってきている。

ところで、奈良盆地南部も縄文後晩期には橿原遺跡(橿原神宮そばの運動場付近)があり、標識遺跡となっている。橿原遺跡や近くには四分遺跡などもあり、祭儀に使う土偶や石刀なども出ており、神山との関係が気になるところである。

持統天皇の時に完成した藤原京。冬至のときに香具山あたりから日が昇り、畝傍山に正確に日没するような場所で祭儀が行われていた可能性もあると私は考えている。縄文時代が、古代につながる絶好の場所ではないだろうか。

藤原京から西の香久山方面(筆者撮影)

田端環状積石遺構からの景観について随分語ってしまったが、3500年前から2700年前の間。私たちの祖先はこの場所に何故集まり何をしていたのだろうか。

縄文時代は10,000年以上続いたが、縄文時代の中で一番盛行を極めたのは5,000年位前の縄文中期と言われている。そして中期の後半(4,500年前位になると気候の冷涼化等様々な要因から環状集落で暮らすことが関東西南部、中央高地では厳しくなり、居住も分散化するなり遊動化していく。特に中期末の4,300年前は気候変動も激しかったのだろう。遺跡がある文化圏(関東西南部、中央高地)で暮らしていた村人たちは、海岸部や西日本に移っていく傾向があったようだ。後期になり中葉(3500年位前)になると関東では火山活動などもあり田端遺跡周辺もほとんど住居跡がなくなる。そんな時期に、かつての後裔たちが冬至などのタイミングに集まり祭儀を行った場所のようである。石組をみると日時計型(神山型?)の立石が北側と南側に3単位あるようだ。これは離散前の環状集落に似て集落の後裔が祭儀だけは共にしているようだ。またこの遺構から代々大切にしていたと思われる大型石棒片や中空大型土偶、ヒスイの大珠、さらに舟形土器まで出土している。

「東京の縄文学」安孫子昭二著 之潮(コレジオ)223P

そばに当時は住居跡がほとんどないことから季節に応じた行事が中心だったのではないかと想像できる。伝統行事、宗教行事とカレンダーが密接な関係があることは現代でもそうだが、縄文時代でも同じだったのではないだろうか。花祭りや復活祭は春分と関係が深そうであるし。もちろん、この眺望の良い場所では太陽だけでなく月や星空も堪能できただろう。3,500年前の星空を国立天文台のフリーソフトMitakaで確認したが、北の空は今の北極星がこぐま座の小さな星の回りを回り、南の空には美しい南十字星が見えたり天の川がより耀いて見えたかもしれない。舟形土器はお墓の中で副葬されたようだが、北斗七星(フナホシという日本独特の呼び方もある)やオリオンの三ツ星との関係が気になったりした。『日本の星』(野尻抱影著、中公文庫、1976年)を参考にした。

田端環状積石遺構の南から、左端が西、右側案内板付近が東(筆者撮影)

「田端環状積石遺構」 玉川大学教育博物館、 2017年、図番30

さて、次は環状積石遺構のそばから出土した中空土偶の頭部。700km離れている北海道著保内野遺跡の国宝の超大型土偶と似ていると注目を浴びた土偶である。下部が残っていれば高さ32cmになるとも言われている。その後、同じような土偶の頭部が余山貝塚等で確認されたため、安孫子昭二氏は東北・津軽あたりに中空土偶の制作拠点があり、そこから勧進されたのではと推論されている。700kmはとにかく縄文人の行動範囲は想像以上。次回は「旅する縄文人」

江戸東京博物館特別展「縄文2021東京に生きた縄文人」にて(筆者撮影)

「東京の縄文学」安孫子昭二著、之潮(コレジオ)223ページ


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