アート&バイブル 72:聖母子を描く聖ルカ


ジョルジョ・ヴァザーリ『聖母子を描く聖ルカ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

10月18日が聖ルカ福音記者の祝日であったことにちなみ、聖ルカを主題とした作品を取り上げてみます。作者ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 生没年1511~1574)は、ミケランジェロやアンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486~1531)に学び、後期ルネサンスのマニエリスムの時代に活躍した画家です。

ミケランジェロとダ・ヴィンチがヴェッキオ宮殿の五百人広間に競作を描くことになったことが幻となり、その後に壁画を描いたのがヴァザーリですから、当時の彼の評価は高かったことがわかります。しかし、その作風は形式的、折衷的で、典型的なマニエリスム時代の作風です。彼の名前と評価はむしろ、3世紀にもわたる芸術家たちの生涯を紹介した『美術家列伝』(1550)によって形成されたもので、同書は美術史に不朽の名を残しています。

さて、ヴァザーリがこの絵を描いた時代はネーデルランド(現在のオランダ、ベルギー)において、大規模なイコノクラスム(=聖像聖画破壊運動)が起こった直後でした。サン・ピエトロ大聖堂の建設のため、ユリウス2世の後を継いだ教皇レオ10世が莫大な建設費をまかなうために贖宥状(いわゆる“免罪符”)を発行しました。これに対して、疑問を抱いたドイツの神学者ルターが公開の質問状(95ヶ条の抗議書)を出したことからプロテスタンティズムが始まったのが1517年です。

ジョルジョ・ヴァザーリ『聖母子を描く聖ルカ』(1567年~70年 520×293 フレスコ画 サンティシマ・アヌンツィアータ聖堂)

この抗議書は、単に贖宥状の是非を問うばかりでなく、様々な神学的な見解の相違を提示するものでした。その中の一つに、美術表現として神を描くことに対する疑問がありました。十戒以来、偶像を作ることや礼拝することは厳しく禁じられていたのに、4世紀初頭にキリスト教が公認されて以来、聖堂を祭壇画、モザイク、壁画、レリーフ、ステンドグラス、彫刻などで飾ることが盛んになってきたことが偶像崇拝に繋がるのではという疑問でした。この疑問から、やがてイコノクラスムがプロテスタント教会の中で激化したのです。

もともとルカが聖母子を描いたという伝説は、9世紀のビザンティン帝国に起源があります。ビザンティン帝国(東ローマ帝国)では7世紀から聖画(イコン)の使用の可否をめぐる論争が過熱し、キリスト史上、最初のイコノクラスムが起こりました。その渦中でキリストや聖母を描いたり、飾ったりすることを肯定する根拠として、それらの原画の起源が聖なるものだということがいわれるようになります。そうだとすれば否定すべき偶像にはあたらないという考えです。そこで、ルカ福音書だけが聖母への受胎告知を記しているのは、ルカが福音書の執筆に当たって聖母にインタビューをしたからであり、それゆえ聖母の姿を描いていたとしてもおかしくはないという論法になったのです。

 

【鑑賞のポイント】

(1)天使たちを伴って聖母子の姿が浮かび上がるように現れ、ルカが絵筆を奮っています。ルカの背後には牛がいますが、これはルカのアトリヴュート(持物・目印)です。

(2)制作を見守る人々もおり、奥の部屋では徒弟たちが顔料をこねているところが描かれています。

 


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