教育新時代:これからの子どもたちはなにを学ぶか(8)


大阪の「ある女子高校」の挑戦(1)

やまじ もとひろ

ここまで中学校、高校が取り組む新しい英語教育のうち、英語能力の獲得について特徴的なメソッドを採用している学校について取り上げてきました。

その1つは、国内の高校と海外の英語使用校と両方の卒業資格を得ることができるダブルディプロマ校でした~本連載(5)(6)参照~。

そんなダブルディプロマ校とは別の方法で英語の運用能力を伸ばしてきた学校があります。今回からは、そんな学校をご紹介したいと思います。

ダブルディプロマ校以前に注目を集めたのは前回触れた「長期留学校」です。

長期留学校は高校生活の一定期間(約1年間)を、英語圏の海外校で過ごすシステムを採用しています。

最も早くこの方法を取り入れたのは、大阪のある女子高校でした。先鞭をつけたとはいえ、そのスタートは五里霧中のなかの船出で、試行錯誤の連続だったといいます。

 

ウチの学校真っ先につぶれるんちゃうか

1980年代初頭、関西のみならず、全国の学校関係者はある言葉に戦々恐々となっていました。それは「生徒急減期」……。

日本の人口のうち14歳以下が、1985年を境に急減する……【図1参照】、関西圏も例外ではなくこのままでは、大阪府内の私立高校は「50校程度がワヤ(ダメ)になる」。

当時の大阪にあった私立高校は約80校。そのうちの50校がいらなくなるというのです。

大阪駅(阪急梅田駅)から約30分、大阪府摂津市にある薫英高校(現 大阪薫英女学院中学校・高等学校)の先生たちも例外ではありませんでした。

しかもこの学校は当時、失礼ながら大阪府下の女子高校では下から3番目という評価しか受けていない学校だったのです。下から3番目という評価は「大学進学実績」を反映してのものでした。

「どうしよう」という、先生たちの困惑の声は妙案にはつながらず、やがて「アカン、ウチ真っ先につぶれるんちゃうか」「校舎跡地に『薫英学園跡地』の石碑が建つわ」と、あきらめの声に変わる有り様でした。

そのようなレベルの学校だったとはいえ、先生たちの教育に対する情熱は熱いものがありました。「学校をなんとかせないかん」についての妙案は生まれなくとも、「ウチの生徒をよりよく導きたい」という先生たちの心は生徒の心に響いていた学校でした。

 

「ダメ学校」から「行きたい学校」へ

生徒急減期を前にして、他の各校が打ち出したのが「特進クラス」の設置でした。成績のよい生徒を中学校から集めて3年後の大学進学実績を伸長させ、それをバネにして志望者増を図ろうとするものでした。もちろんうまくいけば急減期を乗り越えられるチャンスはあります。

しかし、下から3番目の薫英高校が特進クラスを作ったところで、学力という実績の裏打ちがともなっていないのですから、志望者が集まるはずもありません。さらに特進クラスの募集には「特待生」制度がつきものです。入試でトップクラスの生徒は特待生とし、授業料をとらない、というものです。薫英高校には、それだけの財政基盤はありませんでした。急減期を前にした1984年、国の私学助成金が10%も削減してもいたのです。

こうして1985年、少子化は現実のものとなり生徒急減期がやってきました。

薫英高校の留学制度は、思わぬきっかけから生まれました。

1986年、就任間もない新校長は妻とのカナダ旅行として万博観光を計画していました。そこに便乗して生徒数人を同行しての「カナダ研修旅行」を実現させたいと学校は考えたのです。

特進クラスは作れなくとも「ウチの生徒をよりよく導きたい」という先生たちの情熱のから出た提案でもありました。

研修旅行の期間は2週間、カナダの高校との交流も含み校長が全責任を負う形で実現した、この旅行に応募したのは60人あまりでした(全校生徒1500人=当時)。普通の旅行に比べ半額程度とはいえ保護者は裕福な家庭ばかりとは言えない当時の薫英高校。しかし、「我が娘が希望するなら、その知見を広げることは後押ししたい」という保護者の心情がうかがえる応募60人でした。

こうして実現した校長夫妻、引率教員1人、参加生徒6人のカナダ研修旅行、たった生徒6人とはいえ学校主催の海外研修旅行は、大阪ではほかにどこもやっていない行事でした。

そして研修旅行から帰国した一団が持ち帰った「おみやげ」は、翌年以降、薫英高校に思わぬ展開を呼び込むことになります。

次回も薫英高校の挑戦について、話を続けます。

[つづく]

やまじ もとひろ
教育関連書籍、進学情報誌などを発刊する出版社代表。
中学受験、高校受験の情報にくわしい。

 


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