私にとって祈りとは


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

1.願いと人生の道。

「神の言葉を聞きたい」

それは、有史以来、全ての信仰者の願いでしょう。私は、自分の意志や決定が、どこまで正しいのか、全くわかりません。それは、人間であれば当然の悩みでしょうが、誰も、神の御心をすぐに知ることはできません。人間が、そのような不確かさの中で、「啓示」という、ほんの僅かな片鱗を元に、神を知る手段は、ないのでしょうか。この2000年以上の歴史の中で、数多くの信仰者たちが、不確かな時代の中で、「神を知りたい」という思いを持っていたでしょう。それは、この2019年を生きる、私も同じです。でも、御心は、常に私の思い通りではなく、時には、私の意志や願いと、全く別の形のようで、それなのに、結果的には、望んだこと以上の現実が叶っている、そんな、人知を超えたレベルの、「成就」があります。

ですが、その道筋の中は、ただ「私と神さま」だけの関係ではなく、他者という、隣人の姿も見えます。私にとっては、そちらの方の成就の事の方が、多いです。つまり、人を通して、働く神という姿です。私は、今までの人生の中で、色々なキリスト教コミュニティという共同体の中で、生きてきました。そして、今もなお、その中で、生きています。私自身は、無力だったり、欠けが多かったり、時々傲慢になったり、それでも何度となく、挫折も失敗も繰り返しますが、それでも、今も神に繋がって生きる事の中に、いつも意味があるように感じています。

別に、過去の殉教者のように、いきなり拷問で死ぬわけではありません。でも、この現代と社会との軋轢の中で、真綿で首を絞め殺すように、人間を諦めさせたり、絶望に連れ込んだり、「もっといい人生がある」かのように、語る世間は、全くの敵対者ではないですが、過去の者たちとはまた違った「静かな迫害」は、存在するかもしれません。それは決して、誰かの他の生き方を否定するわけではなく、私自身が今、少なくともそのような悩みに今向き合っているから、かもしれません。

 

2. 「ふるいにかける」という事。

カトリックでも言われる言葉か知りませんが、「ふるいにかける」という言葉は、ルーテルの神学校では、何度となく聞いた言葉でした。同じように、私も今こうして、神に試されているかもしれません。単なる、日和見的な、風見鶏のような生き方ではなく、自分の中に、確かな核を持って、生きる事。自分の中に、神の確かさを持って、希望を持ち続け、歩む事。確かに、目の前には、闇しかないかもしれない。だけど。「信じる」とは、そういう事なのだと思います。使徒の一人のトマスでさえ、「自分の目で見て、触れなければ」と語る程に、私たちは、盲目な部分も、否定はできないのです。

それでも、私はこの人生の中で、幾度となく起きた「後でわかる」という、救済の可能性をいつも心に刻んでいます。誰かに、何かを言われてやるのではなく、本当に、神に望みをおき、不確かさの茨の道を、常に歩き続ける事。それは、ただ私の力だけで進めるのではなく、私は、神と他者の祈りによって、歩めるのだと感じました。

本当に、今は、わからない。

それは、十字架のイエスだって、絶望したようなパフィーマンスではなく、本当に、つらかったのでしょう。私だって、昨日少しだけ、進路の問題があっただけなのに、こうやって、すぐに弱気になってしまう事もあります。だけど。もっと辛い状態は、過去に何度もあった。だから、それに比べてみれば、本当に、たいした事はない。だけど。

私には、霊的指導者も、担当の人間がいるわけでもない。
だけど、相談するときは、牧師先生や神父さんの時もあるけど、友人に語る事も多い。ノンクリスチャンの人と、話す事もある。でも、やっぱり、こうやって自分一人で書いている時にも、急にわかる事もある。聖霊は、何処に居ても、働く。お御堂や教会だけではなく、天においても、地においても。

でも、神はこのような、私の心の悩みや不安さえも、善いものとして、用いてくれるのだろう。

意味が無いものなんて、ない。それは、絶対にそう。だけど。
答えや、確かさがほしい。

誰も、神への絶対的な確信の下に、生きているわけでは、ないだろう。私だって、わからない時は、全くわからない。でも、それは決して、今諦めそうとか、そういう意味ではない。だけど、不安とは違う形の怖れがある。怖れなのか、わからないけど、ここから、出ていきたい。それが私の、「祈り」なのだから。

 

3.今ここで諦めたら、絶対に後悔する。

私は、18歳で神に出会ってしまった。だけど、実はその前から、神には出会っていたのかもしれない。それからの人生は、本当に大変だった。

だけど。神を嫌いになった事はないし、洗礼を受けた事を、後悔した事も、ない。

確かに、上智大学に来てすぐの時には、かなり信仰の危機にも遭遇したけど、それでも、神が奇蹟を起こした。2016年の、ルンドの大聖堂でのカトリックとルーテルの合同礼拝をYouTubeで観た時に、本当に、感動した。確かに、私自身、結婚が決まった事もそうですが、同じぐらいに、救済を感じた瞬間でした。そう、それは、本当に。

聖母マリアだって、たった一度の天使からのお告げを信じたように、たった一度でも、奇蹟が起きたなら、どうしてそれを、一生をかけて、信じずにいられるのか。

私たちは、何の為に生きているのだろう。それは、決して、お金のためではないし、老後のためでもない。先日、恩師のご葬儀の時にも、感じた事があった。それは「本当に、満足のいく人生だったのか」という事と、「私は何か、恩返しができたのか」という事だった。確かに、それは寂しさもあったが、でも、それでも、まだこの世界に関わっているような気がする。決して、二度と会えないよりも、たぶん、今までのように、ずっと見守ってくれていると思うし、いつも心配してくれているかもしれない。私は決して、頭がいい方では、ないし、成績が良かったわけでもない。だけど。

私は本当に、今でも愛している。

愛は、永遠に滅びない。それは、そうなのだろう。それは、ただの、脳の機能ではない。だけど「愛する」という言葉以上の、愛を、伝える事ができたのか。私は「愛している」という言葉は、言わない方だけど、それは、その単語や文法的な言葉以上に、愛は「わかるもの」だからである。私にとっては。それは、何も持っていない18歳の私が、それからの人生で知る事になった、神からの贈り物なのに。

今ここで、諦めたら、絶対に後悔する。

それは、本当に、そう。でも、別に今この時点で、壮絶な絶望に突き落とされたわけではなく、これが私の「自由祈祷」なのだと思う。

人生は、一度しかない。リセットも、セーブもできない。それに、2周目も、無いかもしれない。一度、死んだ事は、誰にもないから、誰も知らない。だけど、私は、この31年の人生の中で、本当に、ずっと神と共に歩んできた。それは、本当に、そう。だから、それを信じ続けるしかない。それが、私の信仰の人生なのだから。

「あなたの信仰が、あなたを救った」

と、人生の最後に言われるように、それだけが、本当に、望みなのに。
神の言葉を、聞きたい。でも、聞かなくても、信じていたい。

 


私にとって祈りとは” への1件のフィードバック

  1. わたしも人をとおして神の存在を意識することが数多くありました。
    感謝です

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