神さまの絵の具箱 20

末森英機(ミュージシャン)

「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリントⅠ 12:27)

「神さまのおかげで、わたしは無神論者ですよ」とおっしゃる方がいる。彼の家の前を、いつのころか、同じ時間にあるお乞食さんが、通るようになった。毎日、そのお乞食さんに、茶碗一杯のお茶と、わずかばかりの食べ物をプレゼントするようになった。「両手で受け取るんですね。笑顔で」。エピソードといえるほどのことでもないので、誰にも言わないでほしい、と最後に。もう一人、「神さまのおかげで、こんなに神狂いなんですよ」と神さまと水いらずの暮らしが、いかに幸福かを語る人がいる。日々、祈りを唱え、教会へ欠かさず通い、告解も絶えない。チャリティ活動へも積極的に参加される。「主のそばにいると、罪を認めるようになるんですから」と結ぶ。『ひとつの霊によって、わたしたちは、皆ひとつの体となるために、洗礼を受け、皆ひとつの霊を飲ませてもらいたいのです』。神狂いの、あの信者さんは、お乞食さんに触れたことはないんだそうだ。教会では、ともに苦しむと、つねづね、歌っていないか? ともに苦しむとは、同じ傷を引き受けるということではなかったろうか? 平和について、話し合いながら、戦争の準備をしている。どれだけの人が、そのように今を生きているだろう? ナザレの大工は、決して、罪の告白の席のための、いすを、おつくりにはならなかった。


神さまの絵の具箱 19

末森英機(ミュージシャン)

空しさ、愚かさ、定めなさを、自由への長い道のりに変えてください。近道ではなく、なるべくなら、遠回りの道で。曲がり角から、あなたの天使たちの、香りが花のように漂ってくるでしょうから。それも道しるべです。調べです。メロディという曲調。未来を呼び寄せる場所にすること。しゃれこうべの、あの丘を。ときには、底なしの井戸に神さがしであれ! それも、道です。無言の羊であれ! ラクダが、いや象が、針の穴を通るよりもたやすい。

中央がタゴール師

「わたしが、『神さまの話を、しておくれ』というと、木は花を咲かせた」。ラビンドラナート・タゴールさんは、そう言って低く低く、小さく小さく、なられました。あのとき、あなたは、わたしたち、いやわたしのために、すべての人から、見捨てられましたでしょう?わたしは、喜びのなかで、死にたい。だから、自分に生まれ変わること。あなたは、こうでした、手作りの旅をつづけなさい。心と言葉と行ないの。それは、愛を信ずるということ。「忘れないでください。あなたが、み国に行かれるとき、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)


神さまの絵の具箱 18

末森英機(ミュージシャン)

たとえば、イチジクの、ブドウの、ウリーブの、ナツメの、リンゴの木は、やがて、しおれ、崩れ落ちて、そうして埃になる。老いた旅人は、くたびれ果てて、歌うちからもなくして、まなざしも貧しげ、うつむいてしまう。祈り深い者たちに、日々、毎朝、生まれ変わる恵みをあたえる神さまは、その者たちが、ハチドリの翼のようにきらきらと生まれ変わる、そのおかげで、変わらぬ神さまで、いつづける。コウモリどもは巣をつくり、キツネにも眠る巣があり、海を渡る鳥にも、波のうえに流木が見つけられるのに、人の子にはまくらするところさえなかった。ソドムとゴモラ、もっともっと、ヒロシマ、ナガサキと億劫(おくごう)絶えることのないあやまち。
「幸いなことよ」で始まる詩篇。神さまの愛、昼も夜も、トーラーというおしえを口ずさめとおっしゃる。神さまの愛は、愛情ではなかった。愛が愛情に変わることはない。神さまの愛には情はない。そうだ、愛情には情けがあるけれど、神さまの愛には情けがない。わたしたちが、さかしらをやめるとき、わたしたちの預かり知れないものが、帰ってくるに違いない。旧約聖書にきつく描かれていた〝妬み深い神〟。人間のこころにあたえたかった最大のもの。どんなに祈ろうと、手を取って迎えにきてくれる、やさしいマリアさまはいまい。
あわれなこころの切れはじをつかむ神よ。あなたに似せてつくられたわたしたちは、厚紙でできた人形のようだ?とほうもない辛抱強さはもう、期限切れだ。迫害の味にもなれすぎた。群れは弱り、飢えている。手は合わさったまま、どこへ落ちてゆくものか?『水路のそばに植わった木のように、時が来ると、実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える』。
それから、鞭のうなりも、拷問の悲鳴も、喜びは口ずさむ「幸いなことよ」と。


神さまの絵の具箱 16

末森英機(ミュージシャン)

わたしはつみびとの頭(かしら)である、とサウロは言う。ぼくはつみの頭(かんむり)と言おう。誇らしげに、しかも声高らかに、叫んでみよう。罪はわたしの冠である。痕跡はしたたり落ちる血である。数えきれない傷痕から、流れる汚れた血統(ちすじ)。何もかもを押し流す涙をものともせず、のたまものである。海峡を渡るのに、海ワシのつばさはいらない。蛍(ホタル)の灯(とも)も消えてはかない。海図をたたみ、針のない羅針盤。果敢な舵取りもクビにする。恩知らずのそのつみがすべてをになう。無我夢中(ねっしん)になって、なすべきことなどなにもない。選んだのではない、選ばれたのだから。
十字架を愛することを、急いで覚えなければならないきみやあなたとは訳が違うのだ。
この世の命の慰めに、少しも惹かれないつみは恩知らずの、このぼくなのだから。ここでも、あそこでも悲しみや苦しみを、蜜のように胸の箱に集めて「ただ、愛します」とこうべをたれようとするあなたがたとは、違うのだ。死を生きる。天国なんかいらない、庭師のいない荒れ果てた花園でいい。恩知らずのつみにあれば、メリバの石の水も、マナもノアの胸にかかる虹も見えなくていい。草むらに、深く隠れる若いヘビさえ、新しい管理人を楽園に招きたくてしかたがない。
いちばん不足している子を選んだ。マリアの息子のことか。恩知らずのその罪のために。
夢見る奴隷のように。なにも残らないほど愛する女乞食のように。このひみつこそ、きみやあなたをじっとさせておかない。「人間の肉と血はしばしばいたずらを働く」(ゼカリア3:1〜5)。もう少し待てば、きっとあの楽園の実もふたつに割られて、皿の上にならべられていたのかも。


神さまの絵の具箱 15

末森英機(ミュージシャン)

あなたはそれを、奇妙な病と呼べるのだろうか。ほかのすべてのものがなくても、やっていけると、みているのだろうか。信仰は全能で、口にあふれる祈りの前に、自然の力もそれを支配する兆しも、すべて萎縮して、それら聖句に道を譲ると思うのだろうか。どんなに乾いたあなたのハートも、海の水は満たさないと言うのだろうか。信仰こそ全能だと。どんな大海だろうと高い山脈だろうと、あなたは沈まず転げ落ちることもなく、水の上を雲のすぐ下を歩いてゆけると信じているだろうか。そして、あなたの受ける報いは、あなたの神への愛の深さに比例すると、気づくのだろうか。あらゆる罪のなかに、最たるよこしまな罪も許される絶対に会えるのだろうか。あなたに対して、愛ふかくいらっしゃる神は、帰依、祈り、自己放棄であった。これらすべてにかかわらず、光に手なずけられようと、あなたは狂人のように闇を探りつづける。無知はあなたを神から遠ざける。だが、あなたはもう知っている。本当のあなたが、肉の体ではなく、霊の普遍の賜物であることを。あなたがその生涯に一度、神を求めるという狂気にさらされ、とらえられたなら。そのときにこそ、なにもかもがはっきりとする。なにもかもがやってくる。強烈な真理への愛、甘美な神への愛。与えたいだけ、ひとに隣り人に、赤の他人に、見知らぬ邂逅(であ)ったばかりのひとに与えるがいい。あなたは、言われたとおりのことをすればいい。地獄の光景をまとうようなことになろうとも。
別の、そう異世界から現われたあなたの手は、神のみ名の甘い甘い甘露水のなかの癒やしの手となる。ひとは寄らば触れればこう言うだろう。「この神に酔いしれた者は、いったい何者だろう」と。神狂うとは、歓びに満ちて、幼(いたいけ)な子どものようで、実に賢く、おどろきあやしむほど甘美で、なんと神々しいのか。神狂いとは、すべての善きものの与えてのこと。
「わたしたちが気が狂っているのは、そんな神のためであり、神の愛がわたしたちに強く迫っているから」(コリントⅡ5:13〜14)


神さまの絵の具箱 14

末森英機(ミュージシャン)

冬眠して、おおいなる春を待ち望むのは、預言者の言葉たち。ひとの暦の上の神の暦。ミルクと蜜が流れる河をつくる約束の地へ、パレスチナへの道には、預言者たちの言葉が敷き詰められている。奴隷に生まれた者、奴隷になった者、奴隷にされた者、ひとが発見しうるのは歴史が悪夢であるということだけだったけれど。逃れの町をめざす。大虐殺(ポグラム)の轍(わだち)に。アブラハムは今でもなお、主のみ前に立って、ソドムとゴモラを救うべく、とりとめのない、とりなしを申し開きしている。つかのまであるわたしたち。いつでも、呼吸(いき)をするのも不思議なほど、ひとの歴史につくり主が賭けた富である。わたしたちは永遠の宝である。いまにも落ちそうな、黒いリンゴのようなこの星で、だれが不平など言えよう。口はささやく、心はつぶやく、ときどき海を思い出すように。つくり主のために生きなかった、この時間に。涙の種をまこうとして、塩を刈る、愛をそれでも物語ろうとする。ひとの罪責と、こぼれる花のような神の恩寵。奴隷の身で、光の層を飛ぶこと。ちいさな火花が、強い炎に変わるように。「待ち望む者は幸いである」(ダニエル12:12)。


神さまの絵の具箱 13

末森英機(ミュージシャン)

イエズスは思い出のガリラヤで僕を待っておられる。イエズスはイエズスの僕の思うところにあられる。めぐみにつぐめぐみを受けて、僕はまたひとつぶの、よろこびのしずくの種に呼ばれるだろう。立ち止まることなしに、ティベリアス湖畔への道にイエズスを追い求めつづければ、先に立って、そこに行き、イエズスを見ることになる。ふれること、目で見たこと、手でふれた傷、いのちのもことばについて。せいれいは、みことばを運ぶゲネサレのみなもをわたる、いぶきの風。参与とめぐみ。ガリラヤの空気のなかで、み旨を受けがい、そのイニシアチブにうやうやしく服する僕。連れてゆけ、つれてゆけ。「主よ、わたしはガリラヤへ帰りたい」「もう一度あなたにお目にかかれるでしょうか」「ほんとうに、どこへ行っても、いっしょに歩める幸せを感じるから。こころの目で見るようです」と。イエズスは息吹で話され、そして呼吸で語られるから、そのまなざしは耳に聞こえるようです。僕は信じている。しかし、信じるとは、どういうものか、僕は知らないから。僕はなにを信じているのか知らない。誰のしたことも過ちだったということに、少しも気づかない二千年。異邦人から、始めのない時間から始まり「先にガリラヤへ行っているから」(マルコ16:7)。僕よ僕、したがうこととマネすることは別である。


神さまの絵の具箱 12

末森英機(ミュージシャン)

 恩知らずの罪は、わたしである。罪はわたしの冠である。罪の誇りを冠っている、わたしである。したたり落ちる血しおこそ、汚れた血統(ちすじ)の、これはたまものである。なにもかも押し流す涙を生む。 海を越えるのに、渡り鳥の羽根はいらない。海峡を渡るのに蛍のひらめきも、燐をまきちらす蝶の翅もいらない。海図を読まず、羅針盤に頼ることもない。港へと操る舵取りすら役に立つまい。恩知らずの罪の冠(かしら)だから、無我夢中(ねっしん)になってすべきことは、謀(たばか)り、偽証(いつわり)を自然(きまま)に編むことだけだ。十字架を愛することを急(せ)いて、覚えなければならない、あなたがたとは違う。この世のいのちに微塵もひかれずに、恩知らずの罪は罰あたり者を冠(かしら)に据える。ここでも、あそこでも悲しみや苦しみを、蜜のように胸の巣箱にあつめ「ただ、愛します」と言わんばかりの、信仰深きあなたがたとは陰の深みが違う。死も生きる。天国なんかいらない。忘れないでください、と言わない。わたしは恩知らずの罪にある。星で目がくもることはない。涙で胸がくもることもない。どんなしるしを見せられようと、立ち合わせられようと。どれだけの驚きで、月が砕けようと、太陽が落ちようと。この罪はひとえに秘密を教えてくれる。いちばん不足しているひとり子を選んだそのわけを。わたしは、恩知らずの罪の頭である。なにものこらないほど愛して、傷をいただき、その砕かれた骨をもう一度たがやそうとされる。あなたがたが下界にさがそうとも、すぐには手に取れない。ユメ見る奴隷のように。「人間の肉と血はしばしばいたずらを働く」(ゼカリア3:1−5)


神さまの絵の具箱 11

末森英機(ミュージシャン)

神のくびきの亡命!! 果たせるかな。このせまい両肺のなかまで、あなたを囲い込み、この血のなかに、転がり込む、証しのみ言葉をいつかしら歌うために。血筋のその汚れ。口ずさむための、言葉に変えて、とうに迷ってしまった道へと立ち返るための、道しるべにすることができるのかしら? 鏡は貧しく朽ちかけた鐘楼で、ずっとずっと鳴りつづけている。あのときの、鈴やシンバルやドラムのようにも、静かな叫びのようにも。さあ、光を運ぶ者の光とは、いったい? 光に見える闇の確かさ。愛のために、受けさせたまえ。息をする場所は神殿。息をつぐ場所は麦打ち場。避け所。神はひどいしうちに、はかりしれない傷をお受けになったことを忘れようとするひとびと。

「主よ! お救けください! わたしは、ほろびます」と叫ばずにいるひとびと。幸いなるかな! 塩にも劣る者たちよ! 信仰という油で、手を浄められぬ者たちよ! 「おまえたちが、手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほどの祈りを繰り返しても決して聞かない」(イザヤ1:15)。『まあだだよ』という神の声がこだまする。


神さまの絵の具箱 10

末森英機(ミュージシャン)

天にあっては、真理の砦(とりで)をひとり守るカミ。地にあっては、真実の囲いをひとり編むカミ。私たち以外、だれひとり住みたがらない、このようなわびしいところ、わたしたちのからだに。玄関番のように立たれ。天の優しい風向きが変わらぬあいだを備えに満たし、時もまだ存在せぬうちに、存在していたかもしれぬように、軽やかに、花咲く梢に鳥たちを歌わせるカミ。アナタのみこころが、わたしたちに行なわれますように。同じ傷を引き受けます。アナタの好きなところに、どうかわたしたちのすみかを決めることができますように。幸せに、みずから創(つく)りしものも苦しめもされる。悩ませもする。おさな子が母の胸に子守唄と溶け合い。愛の長い一日を、あの水に泳いでは、また陽に浴び。星座の空には、星をあおいで、くちずけすべき塵(ちり)を見いだし、草のうえに寝転ぶことのように。そして、是が非でも欲しいなら、その相手を、たとえそれが毒蛇であっても抱き取ってしまえるように。叫べそのときにこそ「わたしになしたまえ。主のみこころのままに。わがカミよ、わたしはまったくおんミのものです」!
幸せを運ぶ使者にしっかりと告げたまう、フクイン。そして、最期に消えいる、ランプのともしびこそ、いかにも明るく。わたしたちだけを照らしているけれど。それは、いっさい、わたしたちだけを、ろうそくの芯(しん)のように、頼りにしてともってはいても、おられるカミは、消えゆくだけの炎ではけっしてない。このヒトを見よ。カミはこよなく人間的でありつづけようとされたではなかったか?黒い羊の子の泣き声がするから。その小さい口をせいいっぱい開けて、乳歯にできたムシバを、見せようとする子どものようでいられたら。
「あなたたちはキリストの体であり、また一人一人はその部分です」(コリントⅠ 12:27)