「すべてのいのち」への福音 教皇訪日1年を振り返りながら


川邨裕明(カトリック芦屋教会・甲子園教会 主任司祭)

2019年11月25日、私は軽い興奮の中東京ドームの観客席に陣取り、フランシスコ教皇の祈りに心を合わせていました。教皇の来日を追い風に、日本のカトリック教会にも新しい風がもたらされるのではとの期待を抱きながら、会場を後にしました。

それからわずか一年、世界も日本も新型コロナウイルス感染症の影響で、大きく変わってしまいました。2020年3月はじめ、感染拡大とその後発出された政府の緊急事態宣言を受けて、教会でもすべての活動が停止してゆきました。当初は、ミサをはじめとするすべての活動を延期か中止にするとの連絡を信徒に回すこと、コンサートなどイベントを決行するか、それとも延期か中止にするかの判断、そして告知、チケットの返金などの事務作業に追われていました。

私自身も学校関係の仕事をどうするか、学校との連絡相談が続きました。教誨師関係の仕事をどうするか、施設や教誨師会との調整もありました。また、今年度から甲子園教会の主任も兼任することになりましたので、主日のミサをどうするか、自分自身の活動スタイルを決める必要もありました。

教会のすべて、そして私自身の活動すべてなくなったわけです。事務的な処理に終わりが見えたころ、精神的に極度の落ち込みを体験しました。何も手につかなくなってきました。感染拡大に対する恐怖心、教会活動が失われたことによる喪失感、漠然とした不安、外出できないストレス、様々な要因はあるでしょうが、燃え尽きたようになってしまったのです。

「教会を野戦病院に」とのフランシスコ教皇のメッセージが日本でも発信され、それにどのように応えようかと模索していましたから、この世界的な危機状態にあって活動を止め、信徒に教会に来ないでと呼びかける以外になにもできない、自分に対する無力感が支配していたのです。

助けは意外なところからやってきました。東大寺の森本公穣師がツイッターで「感染収束に向けた正午の祈り」をしましょうと呼びかけておられるのを偶然、目にしたのです。「これだ」と直感的に感じて、すぐさま「私も参加させていただきたい」と返信しました。それまでも、フランシスコ教皇の呼びかける祈りに参加してきましたが、イタリア時間ですのでなかなか時間を合わすのが難しく、単発的なので、継続できるものがほしかったのです。宗教や教派を越えて、毎日正午に祈りましょうとの提案はわかりやすく、参加しやすいと感じました。これまで教誨師として諸宗教の方々と接していましたので、違和感はありませんでした。これならどこかに集まることなく、それぞれの場で心を合わせることができますし、同じ時間に祈っているとの連帯感も感じることができます。この祈りを継続する中で、祈りを通して世界のために貢献できるのだと確信しました。祈りの意向をSNS(インスタグラム・ツィッター・フェイスブック)で発信することで、賛同してくださる方々とも心を合わせることができています。心を持ち直すことができました。

4月半ば頃から、信徒全世帯に復活祭のメッセージを郵送したり、できることは何かと考え思い付いたことを片っ端から試してみたり、YouTubeでメッセージを配信するようになりました。そのうち感染対策を徹底しながら公開ミサが再開できました。日曜学校を再開できずにいるので、「子どものための聖書よもやま話」を制作して、毎週日曜日に配信しています。これからも、感染状況を見ながら、緩和したり厳しくしたりすることになるでしょう。

コロナ自粛期間中、聖書の読み方が変わってきました。緊急事態宣言下の日本では、自粛警察と呼ばれる人々が出てきました。かなり過激な行動が報道されました。そこまで行かなくても、他の人の行動に監視の目を向けてかなり行動を制限し合うような現象が見られました。また、感染した人を攻撃したり排除したりする傾向もありました。

コロナ自粛中の日本と、重い皮膚病(ハンセン氏病)の感染恐怖におびえていたイエスの時代が重なって見えてきたのです。県外ナンバーの車に「帰れ」と張り紙し、夜8時を過ぎて営業している店を見つけては警察に通報する自粛警察と呼ばれる人々の活動と、安息日に病人を癒すイエスに対して攻撃するファリサイ派や宗教的指導者たちの姿が重なっていったのです。すると、ファリサイ派や宗教的指導者たちに対する見方が変わってきました。それまでは、自分たちの権威を守り、利権を手放したくなかったファリサイ派や宗教的指導者たちが、イエスから攻撃されていると考えてイエスを十字架に追いやったと、単純に考えていました。そういう面もありました。しかし、ファリサイ派や宗教的指導者たちは、まじめな人々ではなかったかと思えてきました。まじめに重い皮膚病の蔓延を防ぎ、社会的な秩序を守ろうと考え、自粛警察の役割を果たしていたのです。そう考えるとイエスのメッセージには、いのちを守るにはルールをただ守るだけではなく、ルールが作られた背景にまで立ち返って人のためにルールを用いるべきとの想いが込められていたはずです。

コロナ時代をイエスの時代と重ねることで、見えてくることがもっとたくさんあるはずです。私は今、それを模索中です。その先に、フランシスコ教皇の「すべてのいのちを守る」とのメッセージに応える道があると思うのです。その道を探しています。

 


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