余白のパンセ15 ぼくの「さくら貝の歌」


あの女性(ひと)が天国に行った。

絵を描くことが好きで、歌の好きな女性(ひと)だった。

牛を正面から描いた油絵がある。

牛ちゃんの眼を見ているのが怖いから、と言いながら牛ちゃんがこちらを見る眼が優しく描かれている。

その眼をしっかりと見つめていられるか、ぼくには自信がない。

ある日、電車の中で、その女性(ひと)がぼくにさくら貝をくれた。そして、その女性(ひと)は、「さくら貝の歌」を歌った。すごくきれいな声だった。

映画も好きだと聞いた。それも『男はつらいよ』の寅さんが好きだと言う。その女性(ひと)に、ぼくの歌う『男はつらいよ』を聞いてほしかった。

その女性(ひと)の葬儀が教会で行われた。そして、葬祭場で煙突から上る白い煙を見た。それはその女性(ひと)が天国に上るところだった。
ぼくは、心のなかで、「さくら貝の歌」を歌った。
🎵
美しき 桜貝一つ

 去り行ける 君にささげん
それが、その女性(ひと)にぼくができるささやかな祈りだった。

鵜飼清(評論家)


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