シドティ神父について


鹿児島教区 長野宏樹

(1)シドティ神父の略歴

ジョバンニ・バッチスタ・シドティは1668年、イタリアはシシリア島のパレルモで生れ、若くしてローマに出て神学校に学び、「司祭」に叙階された。1703年、35歳の時、日本におけるキリシタン迫害に心を痛めていたローマ教皇クレメンス11世は当時の支那及びシャムにおいて一旦禁じられたキリスト教が再び自由を快復したことにかんがみ、日本においてもキリスト教解禁を期待し、正式使者の先触れとしてシドティを派遣することにした。

日本に行くよう命じられたシドティは、3年間ローマに留まって日本の風俗や言語を学んだのち、1706年、ローマを出発、フィリピンのマニラに着いて日本渡航の準備をした。屋久島上陸のとき身につけていた着物や刀もそこで手に入れ、ついに1708年8月末、スペイン船トリニダード号で日本に向かい、10月11日の夜半、単身で屋久島にたどり着いた。その時シドティ神父は40歳であった。

シドティは屋久島に上陸したのち現地の奉行所に捕われの身となり、1ヶ月後の11月9日、長崎に護送されて長崎奉行の取り調べを受けのち、翌1709年、第6代将軍家宣に登用された当代随一の朱子学者・新井白石の取り調べを受けるために江戸に移され、12月1日、小石川のキリシタン屋敷に軟禁され取り調べをうけた。白石はシドティ尋問の内容に自分の所見を加えて記録したのが『西洋紀聞』『采覧異言(さいらんいげん)』である。

宣教師としての活動を禁じられたシドティは、誰とも出会うことなく、ひたすら祈りに明け暮れていたが、6年後の1715年に至り、神父の感化を受けてキリシタンになりたいと願うキリシタン屋敷の召使・長助、はる夫婦に洗礼を授けた。その結果、3名は禁を破ったとして屋敷内の地下牢に入れられ、シドティは、11月27日、47歳にしてついに獄死した。

 

(2)シドティ神父列福運動

シドティ神父没後300年に当たる2014年に東京・文京区の切支丹屋敷跡から3人分の遺骨が発見され、2年後にDNA鑑定の結果、シドティ神父と召使2名の遺骨であることが特定された。シドティ神父出身地のイタリア・パレルモ教区は3人は殉教者であるとして2021年11月11日列福調査の報告書を教皇庁列聖省に提出し受理された。

 

(3)シドティ神父屋久島上陸記念館設立計画

シドティ神父が上陸した屋久島町では1980年3日29日「神父シドッチ上陸記念碑」が建立され、1983年10月11日から毎年上陸記念祭(屋久島町と鹿児島教区が交互に主宰)が開催されてきた。昨年11月23日開催された記念祭は37回目をむかえ、地元だけでなく鹿児島教区や全国からの巡礼者が集い、記念祭と展示並びに講演会が開催された。日本においてシドティ神父が自由な身で交流した唯一の庶民は、上陸直後に出会った屋久島の村人であった。突然目の前に現れたサムライ姿の異国人の姿に驚きながらも、村人は自宅に連れ帰り、食べ物と寝る場所を与え、お礼に差し出された金貨には手も触れなかったという。

また屋久島ではシドティ神父の偉業を伝える「屋久島シドッチ記念館」を設立するプロジェクトが出来、地域と教会がひとつになった居場所つくりとなればと願っています。皆様のご支援、ご協力をよろしくお願いします。

ご寄付はホームページ「屋久島シドッティ記念館」をご覧いただき、都合の良い銀行口座に振り込んでいただければ幸いです。

(注)シドティ神父についてより詳しくは、古居智子著『密航最後の伴天連シドッティ』(敬文舎)をご覧ください。

 


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