縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~15.竪穴式住居(縄文中期)の内と外をめぐって


森 裕行(縄文小説家)

15.竪穴式住居(縄文中期)の内と外をめぐって

 2歳の時に人生最初の記憶がいくつか残っている。日光東照宮の参道だと思うが、歩きにくい砂利道を歩く違和感、そして山門の怖い仁王像を見て泣き出し、母親に抱かれた記憶だ。後で調べて分かったのだが父方の祖父母が東京にやってきて母方の祖父母と共に、日光に孫の私を連れて参拝に行ったのだ。普段とは違う日本の聖地で、五感・体感を通し私の内なる世界は外部と繋がり、生まれて初めての記憶が出来たのかもしれない。

 生命体はどうも内と外の世界を持つ存在のようだ。日本語では裏と表、本音と建前といったように似た表現をいくつも持ち、その原初的感覚をしっかりと私たちに根付かせているようだ。そして、「人間は誰でも身体という自明の内部をもつが、それだけではとうてい生きていけない、身体の外側に身体を含む第2、第3の内部が必要となる、すなわち衣服であり建築である。」(建築意匠論 岸田省吾著 15P 2012年 丸善)。

 私の父も一緒に住んでいた祖父も建築家であった。そんなことから自分自身は建築家にはならなかったもののある種の関心はあり、縄文時代に興味を抱くようになってからも竪穴式住居、高床式住居、環状集落やストーンサークルなどに特別の関心を持ち、先日も都埋文の縄文の森で復元竪穴式住居を楽しんだ。住居内では火焚きの実演もあり、ノンビリと楽しい会話をしつつ住居の中にいると、「ある種の落ち着き」を取り戻す。

東京都埋蔵文化財調査センター縄文の村 縄文中期の復元住居C 筆者撮影

復元住居C(TN57の5号住居 加曾利EⅡ式期 地床炉)筆者撮影

鉄塔近くの5号住居跡の模型(模型の下に実際の遺構) 北側から 筆者撮影

「ある種の落ち着き」。それは、幼いころに父の実家の土間やブドウ畑の納屋での経験につながっているようだ。

土間での餅つき 1963年 森隆雄 撮影

今では、味わえない土間の落ち着き。考えてみれば地べたのある生活の歴史は旧石器時代からであり、地べたは縄文時代は信仰の対象であった可能性も高い。諸説があるが、例えば住居Cがあった縄文中期には地べたは女神イザナミといった地母神の域と考えられ、生命の根源のように感じられ考えられていたと私は推測している。実際の住宅内には敷物や生活のための土器や籠が置かれ、祭壇の様な神聖な場所もあり、中央の炉に灯された神聖な火は照明や暖をとるだけでなく、危険な動物からも守ってくれ、その母体のような住居内で身内が寄り添って何らかの信仰のある生活をし、休息をとっていたのだろう。

東京都埋蔵文化財調査センター縄文の村 縄文中期の復元住居C 説明版 筆者撮影

さて、縄文中期の甲信・南西関東の文化では、竪穴式住居がいくつか集まり環状集落の村を形成していた。内なる住居の外には村があった。その村がどのようであったかは考古学者によって長年研究されてきた。例えば八王子市堀之内にある多摩ニュータウンNo.72遺跡(以下72遺跡のように表記)は縄文中期の900年にわたり住居は諸説があるが、約450作られたと推定されている。しかし、複雑に重複する住居址からは、ある時点の景観を復元するのは難しく、拠点集落に付随して一時的に移転先として使われたと思われる村の住居址の研究が注目された。多摩ニュータウンの例では72遺跡の近くにある446遺跡があり、縄文中期前半の勝坂期に20年くらい使われた環状集落跡と考えられている。今回は安孫子昭二氏の「縄文中期集落の景観」(監修者 小林達雄 著者 安孫子昭二 2011年 アム・プロモーション)を参考にその景観と実態を追ってみたい。

「縄文中期集落の景観」 安孫子昭二著 2011年 アム・プロモーション 268P

72遺跡の中央部が保存されている堀之内芝原公園より西を望む 筆者撮影

「縄文中期集落の景観」 安孫子昭二著 2011年 アム・プロモーション20P

446遺跡は大栗川中流域の舌状地(おおよそ長軸130mX短軸75m)にある集落で5,000年前(勝坂期中ごろ)に諸説はあるが120人くらい(幼児含む)の村として営まれた。環状の村の中央広場は祭りの場などで使われたのだろうが、すでに魂となってしまった身内の墓地や厨房施設もあるようだ。その周りには、比較的大きな竪穴式住居と小さな住居がペアで構築され、おそらく一つの家族が住んでいたのだろう。そしてその家族を一単位とすると、中央広場の回りには6単位の家族が住んでいたようだ。そして、住居址の発掘から6家族が一度は建て替えをしつつ都合2回の住居が構えられたようだ。その後この地は縄文中期末まで住居址は発見されていない。このため446遺跡は隣の72遺跡が拠点集落として長年利用される中、生活に必要な資源の問題や衛生問題などから、一時的に移転されたように考えられる。このような遺跡は72遺跡周辺には松木の107遺跡、大塚の67遺跡がある。

ところで、446遺跡の2回目の建て替えの時の炉の形式が添石炉から地床炉のように、部分的に変化することなどにより、S3家族)とN(3家族)は各々違う歴史を持った集団と考えられるようになった。人類学でいう双分制である。こうした双分制は縄文前期から見られ縄文中期末には無くなる。違った集団が同じ環状集落を構成する(異文化を取り入れる)双分制は、結婚相手の問題や生活上の補完関係(例えば生業の違いや交易システムの関係)などが考えられるが、心理学的にも個人や村を活性化する要素になるのではないかと筆者はつらつら思うのである。

自分の生育史を振り返ってみると、環境の変化は性格形成などに大きな影響を与えたようだ。7歳のころにアラスカで暮らした経験などは、大きく変わった今の生き甲斐にも影響を与えている。ある経験が種子のように無意識の世界から現われる。大きな外の世界は内と比べて危険であるが豊かさを生む何かでもある。双分制の社会は適度に外を内面化し、社会を活性化したのだろう。

ただ、その双分制は決して万能ではない。現代社会でも同じ人間なのに集団で殺しあったりすることは事欠かない。人の身体は神の神殿とか、人は愛そのものの魂を持つと言った思想は現実の中では根付きにくい。しかし、縄文時代中期のこの地域での、内の中に外を取り組もうという社会構造。それは、内なる愛そのものの心を信頼し、未知なる外との共存共栄を試みる社会だったのではないだろうか。しかし、内と外といった二者択一の論理は、微妙な自然界との間で齟齬を生じるものだ。約500年後の縄文中期末に環状集落が崩れ、新たな敷石住居やストーンサークルの時代に入るが、内と外の問題はどのように考えられたのだろうか。竪穴式住居を縄文人が最も大切にした愛の表現と考えると、そこから何かが見えてくるようだ。
*「表と裏」(土居健郎著 弘文社 1985)を参考にいたしました。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

5 × 4 =