縄文時代の愛と魂~私たちの祖先はどのように生き抜いたか~13.トイレの神様をめぐって


(縄文小説家 森 裕行)

13.トイレの神様をめぐって

「トイレの神様」は植村花奈さんが紅白歌合戦で歌って人気を博したヒット曲である。トイレには綺麗な女神様がいて、毎日掃除をすると美人になれるという伝承をベースに、祖母の思い出を綴り、多くの人々の共感を得たようだ。

トイレの神様、厠神については、南方熊楠氏も人類学雑誌(第19巻第号大正年)で取り上げている。妊婦が掃除を丁寧にすると美人が生まれるとか、ツバを吐くと神が怒るとか、眼病が治るなど興味深い言い伝えが載せられている。民俗や伝承は考古学の知識を補完する重要な情報であり、神話と結びつけると縄文時代のリアルがさらに見えてくるのではないか。

古事記によると火の神カグツチのお産により下腹部に大やけどをし、地母神イザナミは亡くなる寸前にハニヤスヒメハニヤスヒコ(大便、土の神)とミズホノメノカミ(小便、水の神)を産む。ハニヤスヒメハニヤスヒコは現代では陶芸の神様としても大切にされている。陶器の前身は土器であるから縄文土器とも深く関わると考えても的外れではないだろう。

日本書記にもハニヤマヒメについていくつか記録されているが、中でも日本書紀の三貴子の条の一書(第二の書の一)の中ででてくるイザナミがカグツチのお産がもとで亡くなる物語のなかで、火の神カグツチと土の神ハニヤマヒメが結婚して食べ物の神ワクムスビを産むという話がでてくる。これは縄文時代の土壌クロボクが野焼き・山焼きによるという説日本の土 地質学が明かす黒土と縄文文化 山野井徹著 築地書館 2015)を思い浮かべることができる。野焼きにより蕨などの山菜が多く取れるとの説があり食べ物との関係がでてくる。あるいは、顔面把手付深鉢土器を火で煮炊きする食物神の祭儀との関係も思い浮かべることができる。

さらに、ハニヤスヒメの母神である地母神イザナミのカグツチ出産の話も裏にあるわけであり、厠が女神や出産とも結びつきトイレの女神となっても不思議でない。しかし、このハニヤマヒメやミズハノメが登場する場面は、イザナミの死と黄泉の国の話につながる場面であり、物語の中で生と死が転換する境界的な場面であることも重要だ。

ハニヤスヒメは土の神であるが、例えば粘土は火により焼成されて貴重な土器に変化する。あるいは、便も縄文時代に栽培等で利用されたかは定かでないが、肥料として使えば食糧増産の恵と変わる。こうした変化する特性がハニヤスヒメの特徴と考えることもできる。そして、状態が変化しても、その本質(生命体や魂と言ってもよい)は幸をもたらすものであり、地母神信仰そのものと言ってもよいかもしれない。トイレの神様にはそのような意味が含まれているのではあるまいか。

さて、縄文時代中期の中部高地(山梨県、長野県)と西関東に焦点をしぼり、今回はこの土器の神(粘土の神)と最近の土器づくりの村の考古学的知見との関係を考察してみたい。前回取り上げた多摩ニュータウン245遺跡は北側に粘土採掘場遺跡248遺跡を持つ典型的な土器づくりの村(中期前半勝坂2式~後期前半堀之内1-2式までの1000年以上)であるが、その51号住居からは採掘した粘土をもとに、実際に土器製作をしていた跡が残されていた。「土器づくりのムラと粘土採掘場」(及川良彦 山本孝司)日本考古学第11号を参考に概要を述べてみる。

「土器づくりのムラと粘土採掘場」(及川良彦 山本孝司)日本考古学第11号2001年

粘土採掘場から境川方面への南向きの急斜面に作られた51号住居(加曽利 E1 式末~ E2 式前半)は、建物の北東側にはピットで建物の内部に仕切られていて土器製作用の粘土の下に土器製作に使ったと思われる器台(土器製作に便利な道具)と共に、その上に乗っていて倒れたと思われる曾利Ⅱ式土器と比定される完成段階(乾燥中か)の未焼成土器が見つかった。このエリアには土器製作のための粘土の貯蔵と道具(器台等)もあり、土器製作(成形や施文)が行われていたようだ。また、暗い竪穴式住居で土器づくり(成形や施文等)はできないのではという疑問が浮かぶが、同じ場所で石器づくりも行われた跡もあり、作業空間は天窓等の採用で採光が十分あり細かい作業ができたと考えた方が良いようである。また、保管されていた粘土は住居奥の壁側の神聖な場所に置かれ、他の数例の住居址からも同様であったこともあり、大事に扱われていたようだ。

「土器づくりのムラと粘土採掘場」(及川良彦 山本孝司)日本考古学第11号2001年

 

笛吹市文化財報告書第31集「前付遺跡・大祥寺遺跡 2015年」P324

さらに、多考古第50号(多考古学研究会 2020年)の「竪穴住居と土器りの」(櫛原功一)によれ、縄文中期曾利II式期16住居様の土器製作時の様し、土器製作用道具住居内北側設置され、この住居で土器製作が行われたようだ。245遺跡51住居と大きくなるのは、土器製作住居内部の間仕切りなしで行われたようであり、物の北側奥まったところには、地をつくるための混和剤として
った砂貯蔵土器、乾燥防止等製作要な水をれるのに使ったと思われる鉢土器(有孔鍔付土器の後継とも考えられ、水の神との関係が気になる)、器同じような台石物のの神場所かれていたことである。なお、両耳鉢土器が二つ発掘されたことについては、245遺跡33住居有孔鍔付土器が、意図的にを抜かれ白土をれた状態発掘され、地母神のトルー的な有孔鍔付土器と水の神や土の神との味ありげな祭儀の可能性もあるので、の関係が気になる。

また、土器くりの村では不思なことに明らかに下手な土器と思われる土器がいくつか見つかっている。これは時の社会がアイデンティティ信仰が明な村社会であり、下手な土器は外に出せないという心理的な規制いていることを物語っている。も縄文時代もの文化は健在なのだろう。

縄文2021 東京都江戸東京博物館にて筆者撮影(東京都立埋蔵文化財調査センター所蔵)

ところで縄文時代の実際のトイレはどうだったのだろうか。この疑問に、鳥浜遺跡鰣川(はすかわ)河畔糞石が出土したことで、話になったことがあった。千浦子氏は報書(鳥浜貝塚 県教育委員会 1979年 P173)で、「縄文人が日でいうマルを利用していたかはとして、便をする場所特定場所あったことは想像くない。」としている。とあるが特別味のある貝塚とも考えられ、断定はできないが、土の神、あるいは大地の地母神信仰想像してしまう同じでトイレの神様は健在だったかもしれない。


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