聖週間に鳴り響く受難曲


松橋輝子(音楽学)

 

今回は、広い意味で聖歌に関連する受難曲の歴史を振り返りたいと思います。

受難の主日から復活の主日までの聖週間において、福音書の受難記事が重要な役割を持っています。その歴史は古く、世紀の終わり頃にはキリストの身に起こった出来事に関する聖書の記述を読唱していたことが資料に残されています。やがて9世紀頃になると、音程をつけた朗唱形式で受難記事が歌われるようになりました。さらに、各登場人物や福音記者の役割分担が生まれドラマティックになり、音楽的にも充実していきました。

15世紀に入ると受難曲は多声化されていきます。語りは単旋律、イエスの弟子たちやユダヤの群衆など大勢の人物のせりふは合唱で歌われる「応唱受難曲」、語りを含めて受難記事全体が複数のパートで歌われる「通作受難曲」、四つの福音書の受難記事の内容を混合した「総合受難曲」などの分類ができました。

宗教改革後の16世紀、17世紀にはプロテスタント受難曲が展開され、ラテン語受難曲に加え、ドイツ語受難曲も作られるようになりました。有名な作品としては、シュッツ(1585〜1672)の3つの応唱受難曲があります。四旬節の間は、オルガンも含めて全ての楽器が沈黙するという、いわゆる「音楽断食」が行われていたため、これらの作品には一切楽器が用いられず、声楽のみの作品となっています。福音史家、他の登場人物は単旋律、民衆や弟子たちの声は合唱が用いられ、劇的な雰囲気がもたらされ、受難の各場面がまざまざと描き出されています。

マタイ福音書27:2123、群衆がピラトの問に対して、イエスを十字架につけることを要求するシーンは、特に効果的に合唱が使われています。

32:26

マタイ福音書27:2123:そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアと言われているイエスのほうは、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。(赤字が合唱部分)

17世紀に入ると、器楽を伴う受難曲も作曲されるようになりました。ただし世俗的なイメージをもつ器楽が受難曲に加わることへの抵抗もありました。やがて、聖書以外のテクストを伴う「オラトリオ受難曲」が作曲されるようになりました。これらがカトリック教会では演奏されることはほとんどありませんでした。しかしルター派教会では、受難の教義の重要性からも、礼拝音楽の中で最大規模の演奏の位置づけを与えられることになりました。

中でも、バッハの受難曲は歴史的傑作といえるでしょう。バッハの受難曲は聖書以外のテクストを含んでおり、語りにあたる叙事的な部分と省察にあたる情緒的な部分が交差しています。これらのテクストはバッハの《マタイ受難曲》(1727)における「三層構造」を形成します。第1には朗唱形式(レチタティーヴォ)による客観的な出来事を語る聖書テクスト、第2にアリアやレチタティーヴォを通して個人の主観的な反応を描く自由詩、そして第3にそれらに対する会衆や共同体の認識を描くコラール部分です。これらの三層を通して、受難の物語が音楽を通して現在化するのです。

《マタイ受難曲》の中でも特に有名な第39曲のアリア「憐れみたまえ」。ペトロが3度イエスを知らない、と言った後に、涙のうちに憐れみを願うアリアです。切実な嘆き、そして深い後悔が実に美しい旋律で紡がれる作品です。しかしアリアだけではなく、その後に続く、コラールにも注目です。

「たとえあなたから離れてもきっとまた戻ってゆきます。

御子が私たちを不安と死の苦しみによって贖ってくださったのですから。

私は咎を否みません。

しかし、あなたの恵みと愛は罪よりもはるかに大きなものなのです。

たえずこの身に宿る罪よりも。」

罪を犯す人間、それを大きな愛で贖ってくださる神。希望と救いを見出すことができる曲といえるでしょう。まさにコラールを経て完成する《マタイ受難曲》の真骨頂を聴くことができるのです。今年の四旬節から聖週間にかけて、音楽作品を通して、キリストの受難に思いをはせてはいかがでしょうか。

1:26:19 


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