生きること その後


あき(横浜教区)

 

自分なりに自分の生き方の模索の経過をつづってきました。

今日ちょっと変わった変化が有ったのでお話ししようと思います。

人生後半を旅しているわたしにとって、「どのように生きるのか」は大事な命題でした。

若い皆さんは、「毎日前を向き、忙しく働き、稼いで、家族を養い、たまの休日を謳歌する」。皆が同じとは思いませんが、わたしがたどった人生は、そんな毎日でした。()

今でも働いていますが、最近気が付くとそんな毎日を振り返る時間が増えてきました。

先に書かせていただいたエッセイの中で「ミーイズム」という言葉を使わせていただきました。満員電車に体を押し込み、自分だけ何とか乗り込もうとする人々。「わたし中心」の生き方に、「無理をせず次の電車をご利用ください」とか、「中にいるのは豚じゃないぞぅ」とか、無意識に叫んでいるわたしがいました。

今朝、無理をせずに整列して次の電車を待っていた時、老若男女の人たちが、いつものように「わたしだけ」と肩を入れ尻で中の人を押し込んでいるいつもの風景が現れました。

そして何度も「荷物を引いてください」のアナウンスを聞きながらドアが「がたがた」と開閉し、やっとドアを閉めることができました。

電車がゆっくりと動き出します。

中の人を見つめるわたしの目。目線を避ける電車のドア前のひと。

そんな時、今までのわたしの目は、ミーイズムを発揮している人々をきっと「あさましい」と言っているのでしょう、みんな真っすぐに私を見ることはありませんでした。

今日、同じシチュエーション。

わたしはいつものように彼女彼らを見つめていました。見られた彼女彼らはいつものように目線を外しながらゆっくりと遠ざかって行ったのですが、ふと私自分を振り返ったとき、彼らを見るわたしの意識がいつもと違っていたのです。

今日のわたしは、彼らを攻めていませんでした。

毎日の生活に追われている人たち。

それぞれの環境の中で、時間にせかされて電車に飛び乗る人々。

きっとそれぞれの人生を一生懸命に生きているのだろう。わたしがそうであるように。

気が付いたのは、わたしが彼らを見ていた私の目線は、いつまでもわたしの目線。

批判する意識はわたしの意識。

客観的に事象を捉えたとき、わたしには彼らを批判できるものは無かったのです。

それぞれが、自分の生き方で生きている。

確かに「少し周りを意識して、自分の態度を振り返ってくれたらいいかなっ」とは思いますが、それはわたしが批判することではありません。 それぞれが自分の生き方に気付けばよい。それだけ。

気が付いたら批判して気分が悪くなったのは自分だけ。()

他者を批判するのではなく自分と対話するだけでいい。

そんなことを静かに考える自分がいました。

話は変わりますが、わたしの妻は保育園その他でこどもたちを育ててきました。

こどもたちの姿を見ながら、その行動が昔のおおらかな態度と違うことに気付き、「何が変わったのだろう」と母親との関係に思いを寄せました。逆に母親は母親でこどもたちの事で悩み多い時を過ごしていました。

それに気づき、そんな母親たちが集い、悩みを互いに聞きあう活動を始めました。

また別の場では、絵本を通して世界平和を考える活動を行い、更に年配の人や妊婦さんたちなど色々な方にマインドフルネスを通して心身を健やかにすべく新に活動しようとしています。

それが彼女の生き方。

わたしは、そのようなことはできないので、長年会社に勤めながら、自分を振り返り反省し、他者と自分の姿をみながら生き方を模索しています。

ひとそれぞれの生き方。

今日はそんな生き方の模索の一幕でした。

皆さんは日々何を考えていますでしょうか。


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