やさしさ


あき(横浜教区)

前回、人には「こころ」が存在する。
それは、環境や他者との関わりあいの中に生まれるものであることをお話ししました。
今回は「やさしさ」がテーマです。

 

「やさしさ」

日頃「やさしい」という言葉はどんな時に使われるでしょうか。
「あの子は、花や虫が好きな優しい子ね」
「あなたは優しいからダメなのよ。負けないでしっかりしなさい」
「兄妹でけんかなんかしないで! もっと妹にやさしくなりなさい」などなど。
母親の口調で書いてしまいました。(笑)
「やさしさ」の使い方を言えば切がありませんが、心根のやさしさや態度の弱さ、周りへの配慮など、「やさしさ」という言葉は、色々な場面で表情が変わります。
今回、わたしが述べる「やさしさ」はそのひとつかもしれませんが大事な「やさしさ」だと思います。

わたしたちには「こころ」が存在することをお話ししました。
わたしにも「こころ」があるように他者にも「こころ」が存在します。
今回お話ししたいのは、「こころ」と「こころ」の間にあるものです。

ある人が仕事で悩んで、あなたが相談されたとします。

あなたA、「自分なりの解決策を伝える」
あなたB、「自分で考えなさい」と一見突き放すようですが、その後の様子を見守っている。

どちらが「やさしい」行動でしょうか。
その場で、「自分だったらこうする」と最善の方法を伝えるのも「やさしさ」
すぐに最善の方法を伝えずに見守りながら、最善の方法に導くのもやさしさ。
あなたAは、その場で回答して終わりですが、あなたBは、一見突き放したようで、その後も時間をかけた「やさしさ」
むしろあなたBの方が、相手の状況まで意識した深いやさしさなのかもしれません。

わたしの若いころ。議論になったとき(当然自分に非があるときは、すぐに謝りますが)、一方的に自分が正論と思うことをぶちかますいやな性格でした。(笑)
自分に非がなく、言っていることに矛盾なく筋が通っていると思うときは、とことん相手を論破しました。
わたしはあるころから「わたしには鬼がいる」と感じるようになりました。

そんなわたしが自分で自分の態度がいやになったとき、偶然にカトリック教会の門をくぐりました。
(この偶然と思うことも、必然の出会いと感じる事がたくさんありました)
教会に通うようになってから、わたしは「やさしさ」って何だろうと考えるようになりました。
当時の人間たちの思いの狭間にたって、人間の罪を背負って静かに十字架につけられたイエス様。
「やさしさ」の体現ではないでしょうか。
そんなイエス様の姿と、相手を論破する自分を比較したとき、自分に「やさしさ」はあるだろうかと考えました。

当時は自分が正しいと思ったことは正しいと整然と話をしていましたが、今考えると「わたしの考える一方的な正しさ」であったように思います。相手の立場や主張する立ち位置・状況。相手の感情や表情など気づいていない点が多々ある事が判ります。
もう少し相手の立ち位置を感じて話をしたら、話の展開が変わっていたのではないだろうかと考えるようになりました。
そう思いながら「またやってしまった」と反省する日々があります。(笑)

わたしも陥りがちな事をひとつお話しします。
生きていく過程を通して、無意識に作っていくのが自尊心(プライド)です。
プライドは人生を通して培った生き様を反映したものかもしれません。自分を守ってきたものかもしれません。
しかし「こころ」と「こころ」を響かせるときに、時として自分を守るがために自分の正直な姿を包み隠してしまい本当の自分をさらけ出すことができなくなる事があります。皆さんもそういう場面があるのではないでしょうか。

逆に相手のプライドに係わることを話すときは、仮に友人として相手の為を思い、やさしい気持ちで話したとしても、簡単に相手の「こころ」に響くことはないでしょう。むしろ頑なに「こころ」を貝のように閉じてしまう場合もあります。プライドを頑なに固辞する人になかなかやさしさは伝わりません。
難しいものです。
プライドは気づかないうちに相手を傷つけてしまいます。

また自分のプライドを表に出して話をしている人をよく見かけます。
実は「プライド」の裏には「弱さ」があることを、そういう方は気がついていません。
むしろへりくだって笑いを誘いながら、「こころ」を開いて本音で話し合うことが、自分に偽りのない人生を生きることになるのではないでしょうか。
「自尊心(プライド)や生存本能をベースとしたわたしが先意識」はむしろ世界を狭めることとなるものと思います。

ヘラルト・ダヴィト作『エジプトへの逃避途上の休息』(1510年頃、ワシントン、ナショナル・ギャラリー)

「こころ」と「こころ」の交わるところに「やさしさ」が生まれます。
先ほどの例では、あなたAとあなたBのどちらが最善か。あなたCが更に存在するか。
大事なのは、相手の事を考えること。
相手の立場・状況を考えること。
それが「やさしさ」の本質だと思います。
考える深さによって対応が変わりますが、それは仕方が無いのかもしれません。
「やさしさ」をベースとした「こころ」と「こころ」の触れ合いが信頼につながります。

わたしは、いつしかじぶんなりの「やさしさ」が伝わるような人間になりたいと考えるようになりました。

母親が生まれた我が子を抱きしめて、笑顔で話し愛を伝えます。
我が子を思う姿は、「やさしさ」そのものです。無償の「やさしさ」
そしてそれを真っすぐに受け取る乳飲み子。

生存競争やエゴに捕らわれず、「こころ」豊かに生きる。
わたしたちは神さまに命をいただき、この世の中に生まれた生物の一個体です。
「いきること」に書いたように、「死ぬのが怖い」言っていた私ですが、いただいた命は何れ神さまに返すことになります。
それを拒むことはできません。
人間には答えを見いだすことのできない自分の死の姿を想像するのではなく、いただいた命を最大限謳歌して、「こころ」の信頼の輪を作り、「やさしさ」をもって生きていきたいと思います。

 


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