ピンピン、ひらり


伊藤 一子(レクレ-ション介護士、絵本セラピスト) 

散歩の途中の道端や小さな草叢で、様々な秋の花に出会います。ススキ、アキノノゲシ、セイダカアワダチソウ、フジバカマなどの背の高い草の花、トネアザミ、オミナエシ、ツリフネソウ、ワレモコウなど趣きのある花もあります。ノコンギクやヨメナなどの野菊も足元に群れ咲いています。秋の俳句の季語に「草の花」がありますが、秋の野に咲く花々は、地味で、はかなく、寂し気です。

「草の花」といえば、小川軽舟の「死ぬときは箸置くやうに草の花」という俳句があります。食事の終わりに、私たちは、箸をおき「ごちそうさま」といいます。手を合わせる人もいます。食事を終えた満足感は、「ありがとう、さようなら」の満ち足りた死を連想するのでしょうか。外には、色淡くはかなげに美しい草の花が群れ咲いています。日々の日常生活の延長上に死が訪れる。死は、日常の生活から断絶したものではなく、ひらりとあの世へ横滑りしていくもののようです。あの世は草の花が群れ咲く穏やかな安らかな世界です。私にとって、自分の死生観を考える上で、いつもこの句を参考としています。

日常生活の延長上の死というと、思い出される絵本があります。「ぶたばあちゃん」(マーガレット・ワイルド:文、ロン・ブルックス:絵、今村葦子:訳、あすなろ書房)です。死を扱った物語ですが、登場人物は豚なので、柔らかな曲線で描かれています。周りの景色は秋のようで、色彩も穏やかです。ページをめくると、ぶたばあちゃんの死に支度が、しみじみと迫ってきます。

ぶたばあちゃんは孫娘と長く一緒に住んで、仕事も分け合っていました。ある朝、ぶたばあちゃんはくたびれたと、朝食をベッドでとり、ずっと眠りつづけました。次の朝、ぶたばあちゃんは、「さあ。いそがしくなるよ」と、外出し、銀行口座を閉じ、支払いを全て済ませ、残ったお金を孫娘の財布にしまい、賢く使うよう伝えました。孫娘は、ぶたばあちゃんの死が近いことをさとり、泣くことを堪えました。それから、ぶたばあちゃんは、孫娘を連れて、街をゆっくりと散歩しました。孫娘と話をしながら、街の景色を目に焼き付け、ゆっくりと味わいました。帰宅してからは、孫娘は幼い頃、ぶたばあちゃんに抱きしめてもらったことを話し、今夜は、ぶたばあちゃんを抱きしめていたいといいます。次の朝まで、孫娘はぶたばあちゃんをしっかりと抱きしめていました。しっかりとぶたばあちゃんの最期に寄り添った孫娘は、思い出の四阿へやってきます。隣には、ぶたばあちゃんの魂のようなアヒルが寄り添っていました。

遺された家族に対して、ともに過ごした濃密な思い出があることは、悲嘆にくれずに、自分が居なくても前を向いて歩きだせるようにとの、逝く人の願いです。ぶたばあちゃんの死に支度の見事さに、私は心打たれます。このような逝き方は理想ですが、しっかり生きることの大切さを教えてくれています。

長年、地域医療で活躍された鎌田實さんは、「ピンピンコロリ」ではなく、「ピンピン、ひらり」と提唱しています。ぶたばあちゃんの死も、ピンピン、ひらりと安らかにあの世へ旅立ったものと思われます。

老いていくことは心身の変化を伴います。しっかりと生きていくために、折に触れて、自分の老いに対する考えや死生観をアップデートしていく時間を持ちたいものです。

  供花くげとして野菊群れ咲く野の仏

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