三浦綾子の描いた罪と赦し


中村恵里香(ライター)

『氷点』に描かれた原罪とは?

キリスト教の作家が罪と赦しを描いたものの代表として誰もが口にするのが三浦綾子の『氷点』と『続 氷点』です。

さまざまな人の評論や紹介記事を読んでいると、三浦綾子氏は『氷点』で原罪を、『続 氷点』で赦しを描いていると書いてあります。では、三浦綾子氏の書いた原罪と赦しとはどういったものなのか、考えてみたいと思います。

まずは『氷点』です。

旭川市在住の医師・辻口啓造は、博愛家と通ってきました。妻の夏枝が病院に勤務する村井靖夫と密会中に、3歳の娘ルリ子が殺される事件が起こります。ルリ子の代わりに女の子がほしいと切望する夏枝に対し、啓造は夏枝への復讐のために、殺人犯・佐石の娘をそれとは知らせずに引き取り、夏枝に育てさせます。陽子と名付けられ、夏枝の愛情を一身に受け、明るく素直に育ちます。陽子が小学校1年生になったある日、夏枝が啓造の書斎で見つけた書きかけの手紙に、陽子がルリ子を殺した犯人の娘であることが記されていました。夏枝は陽子をそれまでのように愛することができなくなり、給食費を与えないなど、さまざまな意地悪を始めるようになります。

時が過ぎ、成長した陽子に対し、兄・徹は、陽子が実の妹でないことを察し、ことあるごとに陽子の庇護者となっていきます。大学の親友・北原に陽子を託すつもりでいますが、夏枝が邪魔をし、すれ違っていきます。祭りの日、偶然出会い、誤解が氷解し、2人の仲は進展するかに見えますが、そこに夏枝が入り、陽子が犯罪者の娘であることをぶちまけます。その話にショックを受け、陽子は自殺をしようとルリ子の亡くなった川原に向かいます。

三浦綾子『氷点』上下(朝日新聞社、1965年。画像は角川文庫版)

では本題の原罪ですが、どこに原罪があるのでしょうか。三浦綾子氏がどこに原罪をみていたのかというと、明るく無垢で純粋に生きてきた陽子は、自分の原罪に気づき、凍り付いてしまうところから「氷点」をいうタイトルになったとされています。陽子は“殺人者の娘”という事実によって自分の存在そのものが周りを傷つけてしまうという原罪を持っていることに絶望するという解説もありました。

陽子に原罪があるのでしょうか。陽子は犯罪者の娘とされていますが、陽子自身に原罪があるとは私には思えませんでした。原罪とは生まれ持った罪なのでしょうか。人はいつも正しく生きていくことはできません。さまざまな罪を犯します。私の考えが間違っているかもしれませんが、もしこの作品で原罪があるとすれば、それは夏枝にあるのではないかでしょうか。

アダムとイブの物語から生まれながらに原罪があるといわれますが、本当の意味での原罪は自ら律することができず、何かのきっかけで自らの心の中にある悪が、人をおとしめる心ではないかと考えました。今もどこかで戦争が起こり、さまざまな紛争が起こるのも、人に宿る原罪(悪の心)に起因するのではないでしょうか。

陽子の罪は何でしょうか。日本には「親の因果が子に報う」という言葉があります。陽子に悪の心はないのです。本当の原罪とは何か考えさせられる作品ですが、さまざまな方がさまざまに書いておられることに疑問符が残りました。

 

『続 氷点』に見る赦しとは

自殺を図ったものの、息を吹き返した陽子は、自分が殺人犯の子供ではなかったことを知りますが、不倫の末に生まれた子であることを知ることになります。自らの血の中には罪が流れていると自覚する陽子は周囲のすすめで大学にすぐ進学せず、1年間、乳児院や育児院でボランティアをしながら自分の罪や行いについて考えます。

そして、1年後、北大に入学します。大学では、北原や兄の徹を通して順子と知り合いになります。徹と仲の良い彼女に静かに嫉妬心を燃やしますが、陽子と順子は打ち解け、順子は信仰を通して神に自分を赦してもらったので、明るく生きていられると告げます。

徹は陽子の産みの母・三井恵子と知り合い、彼女に陽子が自分の妹として生きていることを告げます。三井恵子は動揺していないと言いつつも、交通事故にあってしまいます。彼女の見舞いの席で徹は母を女神のごとくあがめる彼女の息子・達哉とその兄に会います。

その後、順子からの手紙で陽子は、順子が佐石の娘であったことを知ります。その事実を父にだけ告げ、母には言いませんでしたが、順子が遊びに来た際、陽子や父がとめようとする努力もむなしく、なにもしらない母、夏枝は彼女に自分たちの娘が佐石に殺されたことを告げます。順子は彼らにお詫びしたい一心で生きてきたと告げ、謝罪します。夏枝はその姿を見て同情こそすれど、怒ることはありませんでした。

一方、母そっくりな陽子をみつけ、達哉は疑問に思いながらも、陽子に近づいていきます。陽子は彼を避けようとしますが、彼はどんどん彼女を追い詰めていき、無理やり彼女を母・三井恵子と会わせようと車に乗せ、連れ去ろうとします。達哉の暴挙に気がついた北原は、止めようとしますが、車に足を引かれ、片足を失ってしまいます。献身的に看病をし、疲れ切ってしまった陽子に三井恵子が会いに来ますが、陽子は彼女とは会いませんでした。その後、三井恵子の夫から手紙が来て、彼らは夫が妻の不貞を知っており、かつ、赦していたことを知ります。

三浦綾子『続 氷点』上下(1971年、朝日新聞社。画像は角川文庫版)

陽子は、自分のために片足を失ってしまった北原と結婚するつもりだと徹に告げますが、北原本人は自分のことは気にしないでほしいと陽子にいい、かつ、流氷でも見てきたらそんなセンチメンタリズムは吹き飛んでしまうからと陽子に旅を勧めます。夏枝は「愛なしの結婚はしてはならない」と陽子に釘を刺し、徹と結婚しても誰も陽子を責めはしないともいいます。

陽子は、一人流氷を見に出かけ、その大きな自然の力の前に「赦し」とは何かを体感し、己の未熟さ、小ささを自覚します。そして愛とは意志の力であり、自分次第であるということを悟ります。

「罪」「原罪」を自覚した陽子が、その罪をいかに赦すかが続編のテーマです。登場人物はいろいろな「罪」を犯していきます。もちろんそれと気が付かずに犯している罪もあります。生きていれば罪を犯さない人はいないと思います。登場人物は順子以外はキリスト教徒ではありませんが、キリスト教の考えがあちらこちらにちりばめられており、登場人物の描かれ方、考え方はキリスト教に基づいているといわれています。そのキリスト教的と言われる部分が私には疑問がありますし、陽子の人生は、自己犠牲による贖罪のかたちだと言われていますが、本当にそうでしょうか。

赦しとは、自己犠牲を伴うものなのか、原罪と赦しについて再度考えてみたいと思う作品でした。

 


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