「罪とゆるし」について―小説『塩狩峠』を手がかりに―


K.S.

はじめに

「罪とゆるし」というテーマから、私が小学生の時に読んだ小説『塩狩峠』を思い出したので、今回題材として取り上げてみたいと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、この小説は、1900年代初頭の北海道を舞台に、実在の人物と実際に起きた鉄道事故をモデルに執筆された、三浦綾子による作品です。作品の冒頭には、ヨハネ福音書12章の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という有名な句が記され、物語全体を貫くテーマにもなっています。これは、イエス・キリストが自らの死期(十字架にかけられること)を悟りながらも、人々に語った言葉です。この作品を通して、キリスト教における「罪とゆるし」に対する、作者の熱い想いに触れることができます。

 

イエス・キリストの十字架と人間の罪

作者は、私たちの誰もが直面している罪の問題を、イエス・キリストの十字架上の死とのつながりの中で見出そうと試みています。ここで言われる罪とは、司法で裁かれるような犯罪という限定的なものではなく、人間の内面にあるものを指していると思われます。それは、ある理由でキリスト教を嫌っていた主人公の青年・永野が、さまざまな人の影響によって信仰に目覚めていく過程を描いている場面で、印象深く伝えられています。永野に出会った一人の伝道師は、永野がキリスト教に詳しいけれど、まだ信仰の確信には至っていないということを見抜き、次のように問いかけました。

「君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか。(中略)いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか。」

これに対して永野は非常に驚き、そして「ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」と否定します。しかし伝道師は、「それじゃ、あなたはキリストと何の縁もない人間ですよ」と答え、イエスの教えを一つでもとことん実行してみれば、自分の罪深さを知ることができるという助言を行うのです。

そこで永野は、「汝の敵を愛せよ」という教えをひたすら実行してみることにします。彼は、イエスの隣人愛に倣って、問題を抱えた同僚・三堀の隣人になろうと誓い、親身に接するのですが、三堀本人には偽善者として反感を持たれてしまいます。永野は、自分がどんなにゆるしても変わらない三堀に対して、やがて怒りを覚えます。しかし、それこそが実は自分が三堀を見下していて、本当は愛していないということであり、自らの罪の問題に気づかされてゆきます。

ここで意味される罪とは、人間の限界、有限性そのものであると思います。私たち人間は、「自分を憎んでいる人を憎み返す」といった限界性を持ち合わせているのです。現代社会に根強く残る偏見や差別といったものも、人間が一度持った先入観を超えることができない、理解の限界に起因していると言えます。聖書の物語でも、イエス・キリスト自身は暴力を用いず、貧しい立場の人々に対して寄り添い続けたのにもかかわらず、人々の的外れな考え方によって殺されてしまいます。永野自身も、人間誰もが持っているこうした罪の問題に自ら向き合うことによって、「自分自身もキリストを十字架にかけた人間のひとり」という実感を深めていったのではないでしょうか。

 

イエス・キリストの復活と罪のゆるし

しかし、イエス・キリストの死というところで終わってしまうならば、ここで「ゆるし」を考えることはできません。聖書では、イエス・キリストは死に葬られ、3日後に復活したと伝えられています。これは、私たち人間の多くが思い描く、死に対する負のイメージを根本的に超えたものです。キリスト教のメッセージでは、私たちは死んで終わりということではなく、その先にある希望に向かうことを教えられています。

同時に永野は、自分自身もイエス・キリストを十字架にかけた一員であるにもかかわらず、まったく変わらずに生かされている――つまり、神の無償の愛によって「ゆるされている」という感覚に気づいていくことによって、キリストの復活に対する理解を深めていったと思われます。こうして永野は、生前のイエスが行った隣人に対する愛のわざの困難さを身をもって体験しながら、そこに倣う道を見出してゆきました。

三浦綾子『塩狩峠』(新潮社、1968年。画像は文庫版)

聖書において、イエスは「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と語り、地に蒔かれた一粒の麦であるキリスト自身に結びつけ、私たち人間も一粒の麦として地に落ち、実を結ぶ者となるように呼びかけました。永野は最終的に、分離した列車の暴走を食い止めるため、列車の下敷きになることによって、他の乗客を救いました。永野は、イエスの死を自分に向けられたものとして受け取って生き、そして「一粒の麦となって地に落ちる」ことを選んだのです。

永野が自分の命を犠牲して死に至ったということには、誰もが衝撃を受けます。そこまでする必要があるのか、という反論も大いにあるでしょう。しかし、永野は、イエス・キリストが死に葬られた後、復活したという出来事を信じていました。それによって、死という人間が誰も抗えない限界を乗り越え、弟子たちにその姿を示したキリストへの信仰にあふれていたからこそ、死に対する恐れや不安を打ち破り、真の意味で生き抜くことができたと理解できます。

 

おわりに―ゆるしがもたらす実り―

永野は、最終的に「ゆるせない」と思っていた同僚の三堀のことも、信仰を証ししていくことにより、心を通わせることにつながりました。三堀は、永野の死をきっかけに信仰の道を歩んでいくことになります。彼は、永野が死の直前、静かにじっと祈っている姿を目撃しました。祈っている時間は短いものでしたが、祈る姿から、永野が自分にしてくれたことの一つ一つを思い返すことができたでしょう。そして、その意味を深く問うことになったと思います。そして三堀もまた、永野からゆるされていることを通して、頑なだった自分をゆるしていくことが促されたのではないでしょうか。

このようにして、イエスが語った「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」ということを、『塩狩峠』という実話に基づいた物語によって、私たちは体感しているのだと思います。皆さんも、この物語を通してさまざまな感想や疑問を持つことと思いますが、その一つ一つが永野の行いを通して結ばれた実りであることを実感します。また同時に、私たち自身も一粒の麦として、どのように落ちていくのかを問われていることを忘れてはならないでしょう。

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

three + seven =