天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎


『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎
皿木喜久:著、産経新聞出版、2019年
定価:1890円   264ページ

2023年は、先月AMORで特集した遠藤周作と同じ年に生まれた司馬遼太郎の生誕100周年にあたります。司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』は、秋山兄弟と正岡子規を主人公として日露戦争に至るまでの明治期日本を描いた歴史小説で、ドラマ化もされました。そんな『坂の上の雲』にも登場する山本信次郎という軍人をご存じでしょうか。

江ノ島の近くに生まれた山本信次郎は、幼少期から、避暑で鎌倉を訪れるアルフォンス・ヘンリックらフランス人の宣教師と交流していました。暁星学園の創設者であるヘンリックらと触れあう中で、彼らの運営する学校で学びたいと望むようになった山本は、東京の暁星中学に進学し、フランス語と英語しか通じない空間で寮生活を送るようになります。フランス人宣教師たちを慕っていた山本は、1893年に暁星中学の聖堂で洗礼を受けました。なお、『信仰の遺産』などを著した岩下壮一神父は、山本の10年後輩にあたり、山本の弟を代父として暁星中学で洗礼を受けています。そして、その岩下壮一を代父として、暁星で洗礼を受けたのが戸塚文卿神父です。山本信次郎は、昭和のカトリック界を代表する偉大な二人の司祭に影響を与えたのです。

「祖国と神に誠実に仕え」ようと志した山本は、暁星中学卒業にあたってヘンリック神父に将来について相談しました。すると、ヘンリック神父は山本に海軍人となるように勧めたのです。『坂の上の雲』の主人公である秋山真之の9年後輩として海軍兵学校に入った山本は、卒業後、義和団事件で初陣を迎えます。日本軍は欧米列強と共に義和団の乱鎮圧に向かいますが、フランス語に堪能であった山本は連合軍との通訳として重宝され、東郷平八郎提督の目に留まります。後に山本は東郷提督の副官となり、彼が薨去した後には、「日本カトリック新聞」で「東郷元帥の思ひ出」という記事を連載することとなます。バルチック艦隊の司令官との交渉で通訳を務めたのも山本でした。

明治時代では上述のように海軍で通訳として働いた山本は、大正時代に入ると皇太子のフランス語教師に選ばれました。後に昭和天皇となる皇太子にフランス語を教えた山本は、1921年の皇太子のヨーロッパ歴訪にも同行しました。その際に、カトリック信者の山本は、教皇庁の関係樹立の重要性を主張し、皇太子と教皇ベネディクト15世の謁見を実現させました。もちろん、皇太子と教皇の通訳を務めたのは山本でした。

数少ないカトリック教徒の海軍人であった山本信次郎は、暁星で培われた語学力と教会を通じた人脈を駆使して、外交官としても活躍しました。山本が外交官として働いた時代は、ロシア革命に代表されるように共産主義が拡大する一方で、ナチスのようなファシズムが人気を博していた時期でした。日本でも共産主義者による皇太子暗殺未遂や軍部の拡大がおきており、左右両極端のイデオロギーが台頭しつつありました。そうした時代に、山本は両極の思想を警戒する教皇と天皇の架け橋として尽力したのです。実際に教皇ピオ11世は、山本との会談で「天皇と、皇室と、日本のために祈る」と発言しました。

愛国心と信仰心を両立させて生きた山本信次郎のことを、岩下壮一神父は「軍服の修道士」と形容したそうです。『カトリック新聞』や湘南白百合、カトリック片瀬教会の創設にも寄与した山本信次郎は、昭和のカトリック史を代表する人物の一人といえるでしょう。そんな彼の伝記『天皇と法王の架け橋 軍服の修道士 山本信次郎』は、激動の明治・大正・昭和史を眺めながら山本信次郎の生涯を学べる一冊です。

石川雄一(教会史家)

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