日々生きる死と復活


O・N(カトリック東京大司教区)

十字架につけられ、葬られたイエスは、三日後に復活され、弟子たちをはじめ、500人以上の人たちの前に現れてくださったと聖書に記されています。教会は、復活のイエスに出会った人々の証言、犠牲、そして彼らの証言を聞いて信じてきたキリスト者たちによって生まれ、今日も存在し続けています。

このイエスの「復活」は、キリスト教の真髄なのですが、死んだ人が生き返るという意味で捉えると、荒唐無稽で信じられないというのも無理はないでしょう。ここでは、生徒に向かって語りかけるようにして説明してみたいと思います。

「主のご復活おめでとうございます!」とクリスチャンが復活祭に言い合うお祝いの言葉は、イエスの復活を喜ぶにとどまるものではありません。イエスが、「すべての人を自分の元に引き寄せよう」(ヨハネ12・32)と約束してくださった通り、主とともに復活したことをお互いに喜び合うものでもあります。

復活祭では洗礼式も行われますが、それは、洗礼が「復活」の目に見えるしるしだからです。実は、私たちは毎日「死」と「復活」を繰り返しています。年に一度の復活祭で、イエスの復活を祝い、自分たちの復活を確認し、喜びを新たにするのです。

「復活」という言葉は、新約聖書の原典のギリシア語で、「起こす・目覚めさせる」という意味の「エゲイロー」と、「起き上がる」という意味の「アナスタシス」という二つの言葉で表現されています。英語ではresurrection。reという接頭語は、「再び」という意味、そしてsurrectionは「立ち上がる」という意味ですから、「再び立ち上がる」というのが本来の意味なんですね。

たとえば、人は約60兆の細胞からできていて、毎日約1兆個の細胞が死んで、同数の新しい細胞が生まれているそうです。これは、身体的な「死」と「復活」ですね。ここで、私たちは自分の力で髪の毛一本どころか、細胞の一つさえ作り出すことができない、つまり、つくられた存在だと気付かされます。このことに気づくと、ただの人間に過ぎない自分の限界を受け入れることができるようになる。これが、これまでの古い自分に死ぬということ。こうして、自分勝手な思い込みや執着を捨て、神のみ旨に委ねることが、新しい自分へと生まれ変わるということなのかもしれません。

とは言っても、思い込みを捨てるのは容易なことではありません。弟子の一人であるトマスは、他の弟子たちが「復活のキリストにお会いした」と言うのに、「イエスの手の釘跡を見て、自分の手と指を十字架の釘跡に入れてみないと信じない」とまで言って頑なに信じませんでした。そんなトマスに、イエスは手を見せ、釘跡に手を入れるよう促してこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20・29)

私たちは、つい物事の現象だけにとらわれがちです。しかし、自然に目を向けると、冬の間葉っぱも全て落ち、すっかり枯れてしまったように見えていた木々が、春には一斉に芽吹き、花を咲かせることに感動します。地中ではしっかりと根を張り、内側では次の世代のためのエネルギーを蓄えているのですね。イエスは、一粒の麦に譬えられましたが(ヨハネ12・24-25)、地中に埋められた麦や種は、その小さな殻を破り、いのちの芽を出し、やがて多くの実を結びます。一粒の麦は私たちです。自分が死ぬことで、後々の世代に繫がる新しいいのちが生まれるなんて、小さな種の中であれこれ考えたって想像もつきません。

このように、冬には枯れたように見える木々の内側にはいのちのエネルギーが充満していること。自分の身体の細胞の一つまでもがつくられたものであり、一瞬一瞬生まれ変わっていること。地球が自転しながら公転していることで、毎日規則正しく朝がきて夜が来ること。宇宙やいのちの不思議さには、現象だけではなく、その本質に目を留めなければ気づきません。これら素晴らしい現象の背後にある、神の計り知れない創造のみ業(わざ)は目で見ることはできませんが、私たちを驚きと喜びで満たし、新しくしてくれているのです。

シンガーソングライターの藤井風さんの『きらり』という曲にこんな歌詞があります。

「新しい日々は探さずとも常に ここに
常にここに ここに」

復活のイエスと出会うことで、日々新しくされますように。

 


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