復活を教える、というよりは


才間郁(光塩女子学院初等科、聖セシリア小学校・女子中学校 宗教科非常勤講師)

2023年3月21日、私はテレビやSNSで何度もこの言葉を耳にしました。

「村神様、復活!」

この日はWBC(ワールドベースボールクラシック)の準決勝、日本対メキシコ戦が行われました。一打が出れば、逆転サヨナラ勝ちという場面で登場したのが、村上宗隆選手。彼は「村神様」という愛称で呼ばれる、史上最年少の三冠王です。しかし、本大会では実力を発揮できず、この日は三打席連続三振でした。そして……打った! 彼の一打で、日本は決勝進出。その後、日本はWBC優勝となりました。この日、村上選手に対して多用された「復活」の意味は「実力があるのにもかかわらず、それが発揮できていなかった。けれども、やっとその実力が発揮できた!」ということではないでしょうか。

では、「イエスの復活」とは何でしょうか。「復活なさった」、聖書の言葉の通りに伝えても、児童生徒は「???」。「復活」という出来事が、私達の常識からかけ離れているため「そんなの嘘だ」「キリスト教やばすぎる」という反応になるのです。そのため、私は彼らが復活について自由に発想できるよう、ファシリテートし、自分なりの「復活したイエス」に出会うことのできる授業を展開したいと考えています。授業の際は、以下の二つを心がけています。

 

①「復活」のイメージを聞く

授業の初めは、「復活」の言葉のイメージを共有すること。同じ言葉でも、人によって考えていることが異なるからです。授業で「復活とは?」と児童生徒に尋ねると、「体が生き返ること」と返答されることが多いです。ある児童は復活=蘇生と考えているけれども、ゾンビとは違う、と教えてくれました。また、ある生徒は「ふとした瞬間に(故人との)思い出がよみがえって、その人が心の中で生き続けること」という話をしてくれました。この意見には、他の生徒も賛同していました。

 

②編集史的方法、文学批判的方法で「聖書」を読む

聖書学の方法論で、編集史的方法(福音書記者の執筆/編集意図を考察する)と文学批判的方法(聖書を文学として読んだ場合、その文学的効果を考察する)があります。その二つの方法論を取り入れて、授業を展開します。

 

a.登場人物は、復活の出来事の時、どこにいたのか、何を考えていたのか

例えば、弟子であれば、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)とあります。彼らはどうして家にいたのか。ユダヤ人の何を恐れていたのか。児童生徒とそんなことを考えながら、あたかも自分がその場にいたかのように、イエスの復活の出来事を追体験してほしいと考えています。

 

b.復活したイエスの言葉が、登場人物、そして私達にどのように影響したか

例えば、復活したイエスは女性達に「ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:10)と弟子達への伝言を託します。この言葉から、児童生徒に自由に発想させます。なぜ、ガリラヤなのか。どうして、直接弟子に伝えずに、「伝言」をしたのか。この言葉は読者である私達に、何を促すのか。

 

c.復活したイエスは、他の登場人物や私達に何を伝えたかったのか

私個人としてはマタイ福音書の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という言葉を受けて、「復活=赦し、愛、共にいること」と考えています。ただ、この考えを押しつけるのではなく、児童生徒が自由に発想し、復活の出来事について感じたことなどを分かち合うことで自分なりの「復活したイエス」に出会って欲しいと考えます。

 

正直なところ宗教科教員として、「復活を教えること」は私には出来ていません。ただ宗教科教員として、児童生徒が授業で聖書を読むときのファシリテーターとなり、児童生徒とイエスを仲介する存在になりたいと考えています。

 


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