わたしのイエス


あき(カトリック横浜教区信徒)

12月の特集「それぞれのイエス・キリスト像」というテーマと、来年が「遠藤周作生誕100年」であることを意識しながら古書店を歩いていた時、目に留まったのが、遠藤周作の『私のイエス――日本人のための聖書入門』という本でした。本には黄色いマーカーで、たくさん線が引かれていました。線をみながら購入者のこころの動きも読めるのは面白い経験でした。

本書は1976年に祥伝社から刊行されたもので、遠藤周作が53才の時のものです。
刊行時は既に『海と毒薬』や『沈黙』や、わたしの好きな『おバカさん』など数々の作品が発表されていました。

わたしは、そんな作家生活の中盤期に『私のイエス』というタイトルの本を出したという点に興味を持ちました。
これは想像ですが、わたしは日本人のための聖書入門というテーマで、彼がこころの中のイエスさま“同伴者イエス”をもう一度見つめなおしたかったのではないかと思いました。

その後、彼の“わたしのイエス”は『キリストの誕生』『深い河』などの著名な作品に続いていくことになります。
内容は「キリスト教と私」が書かれた1章から、2章は彼の考察する「聖書の中の真実のイエス」、3章「聖書の謎」へと続いていきます。詳細は読んでいただくとして、遠藤周作自身のこころの中におられるイエスは我が身をも与えた優しいイエス像でした。

旧約聖書の中の神さまは、時により罰を与える厳しい神さまでユダヤ教徒は立法を厳格に守ることを求められました。
これはユダヤの土地柄を反映しているとも感じ取れます。

そんなユダヤ世界の中で、多くの庶民は貧困にあえぎ、病苦に苦しみ、哀しみの中で生活していました。
その苦しみを肌で感じて育ったイエスは、一緒に苦しみ悩む同伴者としての姿を現していきました。
そのイエスの姿の中に、人々はいつしか現世の救い主として革命を起こし実生活の救済を懇願する想いを重ねることとなっていくのですが、イエスが伝えたかった同伴者としての愛の姿と、弟子をも含めた民衆の想いとのギャップがどんどん膨らんでいくことになります。

一方、権力に寄り添ったユダヤ教のラビたちは、過ぎ越しの祭りの前に革命家を捕縛し見せしめに死刑を与え、革命の機運を消そうと考えていました。
人々の想いと弟子たちの想い、そしてラビたちのそれぞれの想いは、イエスを見せしめにする悲劇に向かっていきます。
わたしは人間の本質にある罪が表に出てきていると感じました。

イエスのすごいところは、そんな周囲の想いの渦の中にあって自分の最後がどうなるかを知ったうえで、「神に皆の過ちを赦してほしい」と願うところ。
わが身の安全を懇願するのではなく、わが身を陥れる人々を赦すよう神に祈る。
人間にそんな事ができるでしょうか。
究極の愛。本書は、そんなイエスの様子を描いていきます。

そして更に続けて遠藤周作は、自分が不思議であると疑問を抱いている点を説明していきます。
ひとつはキリスト教の根底である「復活の神秘」とはどういうことか。
イエスと一緒に伝道に歩いた弟子たちが、イエスと一緒にひとりも捕まらなかったのはなぜか。
また、「あなたは私を裏切る」とイエスが預言し、その通りになった弟子たちが、なぜイエスを伝導する強い気持ちをいだくようになったのか。
遠藤周作の説明がわたしの腑に落ちました。

この点も詳しく書きたいところですが。。。
是非、本書をお読みください。
遠藤周作の「わたしのイエス」像に強く惹かれるとともに、私自身のイエスを改めて思い起こさせる本書でした。
キリスト者は皆こころにイエスさまを抱いていることと思います。
それはどんなイエスさまでしょうか。
そしてなぜそう思ったのでしょうか。
具体的に思いを整理していくことで、イエスさまの姿が明確になっていきます。
皆様のイエスさまがはっきりと見えるようになるようお祈りいたします。

 


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