マグダラのマリア ~私をイエスのもとへ導いてくれる存在~


Maria M. A.

『霊名は自分で決めて良いよ。聖書に出てくる人が良いんじゃないかな?』洗礼を受けることを決めた後、洗礼名について相談すると霊的指導の先生は簡単にそう言った。聖書学の先生だったから、なのか、他にそこに何か特別な意図があったのか、今となってはよく分からないけれど、何か直観を持っている様子でそう言った先生の言葉に、深く考えず素直に受け止めた。とは言っても、聖書に登場する名前を持つ女性というのは、実はそうあまり多くはない。

自分の信者としての在り方、信仰にシンパシーを感じるような存在を考えた時、真っ先に頭に浮かんだのがマグダラのマリアの姿だった。

昔読んだ聖書に登場する女性の絵画集の解説の中で、マグダラのマリアは姦淫の罪を犯しイエスによって癒された女性と混同されたり、その間違ったイメージから絵画の中で娼婦として描かれたりと誤解されることがあるが、イエスと共に行動していたことから、ある程度身分のある女性であったと解釈され、絵画の中では美しいドレスを身にまとい貴婦人として描かれることも多い、と書かれていた。

神学部の授業でイエスの復活について先生が語る中で、葬られたイエスを見舞うという行為は、誰かに見つかれば逆賊であるイエスの仲間だと見なされ、捕まれば同じように処刑される、命の危険が伴う行為であったことを知った。イエスの復活の場面で語られるマグダラのマリアの、自分の命を顧みず、それでも亡くなったイエスの元に駆け付けた彼女のまっすぐな思いや、イエスの亡骸が無いことに絶望して泣いていた姿に、人間らしい心の動きを感じた。復活したイエスは、使徒と呼ばれる弟子たちの前にではなく、一番に彼女の前に現れる。イエス自身も彼女の信仰に応えているように感じられる美しい場面のひとつだと思う。

マグダラのマリアが新約聖書に描かれた女性の中でも特別注目される存在である理由のひとつは、復活したイエスを一番初めに目にした存在であることだろう。2番目、3番目であれば、また違った印象を与えていた気がする。なぜ、使徒と呼ばれる12人の弟子たちではなく彼女だったのか。

イエスの復活の話をひとつの物語として捉えた時、十字架の上で亡くなったイエスが、復活し、12人の弟子たちの前に姿を現した方が、クライマックスとしての盛り上がりを感じるし、むしろその後、弟子たちを宣教へと駆り立てる動機付けとしても自然な流れのようにも感じる。弟子たちが民衆に語る内容としても、より説得力を増すような気さえする。

新約聖書を読み解く時の方法論として、書かれた時代のバックグラウンドから内容を照らして、不自然に感じられる内容の場合、それが実際の出来事であったり、その物語の中で最も重要な核であったりすると考えることがある。

この考え方から行くと、男性優位な時代でありながら女性がその役割を担っているということが、実際に起きた出来事である。もしくは、復活のイエスを語る上で特に伝えたい内容、神さまの特別なメッセージが隠されていると考えることができる。

ホセ・デ・リベーラ『マグダラのマリア』(プラド美術館所蔵)

復活のイエスを目にした彼女は、その意味を理解し、受け止め、他の弟子たちに自分の見たものを伝えに行く。そこにはひとりの『人』として、イエスから特別な使命-ミッション-を託されているように感じる。

私たちは、ごく当たり前のこととして毎週教会に足を運び、ミサにあずかる。ミサの中でそこに集う、ひとりひとりが主の晩餐に招かれ、体験し、主の復活を思い起こす。ご聖体をいただく、そのたびに、内なる自分とイエスとの一致を感じる。ミサの終わりの派遣の祝福を受けて、希望を持ってキリスト者として生きていく気持ちを強くする。ミサを通して、私は、イエスに再会し、キリスト者として生きる自分の心の姿勢を整え、今より先へと歩みを進める勇気をもらう。

実は、コロナの影響やいくつかの理由から、ここ数年教会に行っておらず、ミサにもあずかれていない。自分にとってミサにあずかることの意味を振り返り、言葉にする中で出てきた、マグダラのマリアの足跡を辿っているかのような一連の流れに、我ながらぴったりな人物を霊名として選んだのではないかと思っている。

半歩先を歩んで、私をイエスへと導いてくれる。私にとって、マグダラのマリアとは、そのような存在である。

(カトリック信徒、日本出身、シンガポール在住)

 


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