ルカ 小笠原 晋也(精神分析家,聖イグナチオ教会所属信徒)
トマス アクィナスは,マグダラのマリアを「使徒たちの使徒」(Apostolorum Apostola) と呼んだ.その表現は,確かに,「主の復活の最初の証人であり,使徒たちに主の復活を告げ知らせるよう主に命ぜられた者」という意味では,「使徒たちへ使わされた使徒」である.だが,それは,「使徒たちのなかの最高の使徒」でもある.実際,イェスは「主たちのなかの最高の主,王たちのなかの最高の王」という意味で「主たちの主,王たちの王」(Dominus dominorum et Rex regum) と呼ばれている.
マグダラのマリアによる主の復活の証を使徒たちが信ずるまでは,彼女だけがキリスト者であった.彼女がひとりだけで教会を構成していた.もし仮に彼女がいなかったならば,教会は誕生し得なかったはずだろう.
にもかかわらず,7月22日が パパ フランチェスコによって 彼女の「記念日」(memoria) から「祝日」(festum) へ格上げされたのは,やっと2016年になってのことである — 男の使徒たちに対しては,ずっと以前から,それぞれの「祝日」を以て敬意が払われてきたのに対して(我々は,カトリック教会の女性蔑視の体質をそのようなところにも読み取ることができる).
わたしは思う — マグダラのマリアは,まことに,使徒たちのなかの最高の使徒である:なぜなら,イェスの 死から永遠のいのちへの 復活は,最初に,彼女において(彼女の「心のなかで」ではなく,彼女の実存において)成起したのだから.そして,そのことは,同時に,彼女自身をも永遠のいのちへ復活させた.
なぜ彼女においてそのようなことが起き得たのか? それは,深く愛した者を失ったことに対する深い喪のゆえである.彼女にとって「すべて」であった者を,彼女は失った.その全的な喪失によって,彼女において,底知れぬ深淵が口を開いた — そこから出発して神が天地を創造したところの無の深淵と同じ深淵が.そして,その深淵から,イェスは,永遠のいのちへ復活した.
カラヴァッジョの「マグダラのマリアの恍惚」は,その瞬間を — 彼女においてイェスが復活した瞬間を — 非神話的に,実存的に,描いている.わたしはそう感ずる.
わたしたちは,当然ながら,主の復活を,単なる神話,あるいは,単なる心理学的ないし精神病理学的な事象と見なすことはできない.信仰そのものも,単なる「こころの問題」でも,単に「あるナラティヴを真と信じ込むこと」でもない.
主の復活を信ずるということは,単にそれを教義として信ずるということではない.そうではなく,わたしたちにおいて主が復活するとき,復活した主がわたしたちに実存的な変化をもたらすとき,そのことが恵みとしてわたしたちにおいて成起するとき,はじめて,わたしたちは主の復活を信ずる者となる.そして,そのことは,同時に,わたしたち自身をも,永遠のいのちへ復活させる.
永遠のいのちは,死後の御褒美のようなものではない.神の恵みによって,わたしたちは,今,現に,永遠のいのちを,わたしたちの実存において,生きている.マグダラの聖マリアは,わたしたちに,そのことを教えている.だからこそ,彼女は,使徒たちのなかの最高の使徒なのだ.