神は無きに等しい者をあえて選ばれた


鵜飼清(評論家)

昨年(2020年)の今頃は、家と事務所の二重引っ越しの準備に追われていた。

コロナで事務所は撤退せざるを得ない、いやそれだけではなく、編集・制作の請負仕事が人災に遭ってしまって思うようにお金が入らなかった。こんなドジを書いて恥ずかしい限りだが、家では老親の同居介護で疲れ切っていたし、ようやく両親が特養に入れたら、今度は同居していたアパートから立ち退きの督促がきた。

あちらもこちらもどん詰まりで、まさにどん底の状態だった。事務所のことは、AMORの「余白のパンセ(6)」に書かせていただいたが、引っ越してからも「ガラン」としたこころの空白に佇んで、なかなか歩みが思うようにならないでいる。

大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』(みすず書房 1978年)

戸山ハイツのアパートに引っ越し先が決まり、それから時々近くの早稲田大学散歩をしている。大学は早稲田大学社会科学部に入ったので、以来、大塚久雄さんの本を読んでぼくなりに社会科学について学ぼうとしていた。大学を卒業してから出された『生活の貧しさと心の貧しさ』は、ときどきページを開いて読んでいた。そんな読書経験から、引っ越した後で本を棚に並べながら、この本との再会をしたのである。

そのなかで、パウロの「コリント人への第一の手紙」第一章に出てくる言葉を引用したタイトルの「神は無きに等しい者を選びたまう」に目が留まった。この文章は、1975年4月15日、国際基督教大学礼拝堂で行った講演の速記に加筆されたものとある。1975年は、ぼくが大学を卒業した年であった。

 

大塚さんが書かれているのは、何か旧約聖書に独自なものがあるらしいということで、「気の毒な人々、貧しい人々、よるべのない人々、あるいは軽蔑され、あるいは抑圧されて苦しんでいる人々、そういう人々を大切にせよ、という戒めが与えられるごとに、必ずと言ってよいほど、私が君たちの先祖を昔エジプトの奴隷の家から導き出し解放した。そして、君たちは現在自主の状態にある。だから君たちは私ヤーウェの与えた恩恵に対して、先祖たちと結んだ契約に従って、この戒めを守らねばならない。そういうことが繰り返し繰り返し記されていることです。」とし、「言いかえれば、奴隷状態からの解放と弱者への温かい命令が一つに結び付けられているということです。」と書かれる。

そして「君たちはヤーウェの恩恵によって奴隷の家から導き出された人々の子孫だということ。だから、君たちは今苦しめられている人々、貧しい人々、あるいはよるべない人々を本当に自分と同じように大切にしなければならない、という戒め。しかも、そうした倫理的義務の遂行は君たちに与えられた使命であって、そのためにこそヤーウェは君たちを選ばれたのだ、ということ。

――この3つが混然と結びついて旧約聖書のいたるところに繰り返し出てくる。

旧約聖書を一本の金線のように貫いているこうした主題が、新約聖書のなかにも出ていて、それが『神は無きに等しい者をあえて選ばれた』というパウロの言葉に再現されている」と言います。

つまり、旧約のばあいは、隣人愛はイスラエル民族という共同体にのみ通用する「対内道徳」を持っていたが、新約は隣人愛をそういう民族的な狭い枠から解き放って、全人類的なものにしたとしています。

そして「君たちは現世的には無きに等しい者だが、神はその無きに等しい者たちをあえて選んで、新約、つまり神との新しい契約の当の担い手とされたのだ」というわけです。

パウロ自身が、イエスに倣ってあの「ヤーウェの僕」のような生涯をあえて選んだ、パウロは言った「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。……なぜなら、わたしが弱い時こそ、わたしは強いからである」(「コリント人への第二の手紙」第2章)と書かれます。

 

ぼくは、このパウロの言葉を大塚さんの文章から読み、改めてイエスの生涯を想った。

2021年のクリスマスを祝うなかで、ぼくは、いままで以上に真摯にイエスと向き合い、イエスの誕生を喜び、イエスに倣ってこれからの人生を歩んでいきたい、と思っている。

少しは歩みをはじめられるように、祈りたい。

 


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