旧約聖書の王――神だけでなく、人間の王もいた


石原良明

はじめに

日本では、この5月から新しい「令和」という時代が始まりましたが、神学的には、歴史には2つの区分しかありません。旧約の時代と新約の時代です。

地上の歴史について考えるには、様々な要素が複雑に絡み合って歴史を画するものです。歴史は、人が勝手に作った区切りによって、というよりは、その社会が持つ生産力や内憂外患のような圧力によって動くものだと私は思います。

さて、聖書では神が王だと言われているのに、人間の王様もいたのはなぜでしょうか。しかも、その王様たるや、ダビデやソロモンのような有名な王様ばかりです。このあたりの事情を歴史的に見てみましょう。

 

メソポタミアとエジプト:神々の化身としての王

旧約聖書の背景でもあるメソポタミアやエジプトでは、狩猟と採集の時代が終わって農耕生活による定住化が始まった頃から村落が誕生し、灌漑農業が盛んになるにつれて共同体が大きくなりました。紀元前8500年頃から5000年頃のことです。その当時にはすでに共同体の精神的統合のしるしとして神殿や共同建築物が見られるようになるそうです。灌漑施設の建設や共用により、協働作業は氏族の枠組みを越えた、つまり血縁ばかりでなく地縁による社会的共同体が拡大していきました。紀元前4000年以降には農業に従事する村落と人口が集中する都市が現れ、やがて都市国家となっていきます。

複数の都市国家を支配する領土国家が現れるのは紀元前3000年以降のことです。エジプトではメネスという王がエジプトの都市国家を統一。メネス王は自分の出身地の守護神ホルスの化身であると主張し、さらに後代のファラオたちは自らを創造神ラーの化身と謳いました。その最初期から、臣下の殉死の習慣が認められると言われます。いかに強大な権力を誇示していたか想像できそうですね。メソポタミアではシュメール人による都市国家が土地や水利権をめぐって長く覇を競い合っていましたが、その都市国家に世俗的な政治権力を持つ王がいたのかどうかは明らかになっていないそうです。

やがて、紀元前24世紀にシュメール人による領土国家が誕生しますが、王朝として長続きはしませんでした。

その後、セム人によるアッカド王国サルゴン1世の時代(紀元前2400年頃)に、アッカド人総督を地方に派遣する中央集権的な官僚国家が樹立します。エンリル神や女神イシュタルへの信仰を国教扱いとし、聖俗両面からその支配を確たるものとしました。

その4代目の王ナラムシンは自らの神格化をし、「四方世界の王」を名乗りました。「副葬品」としての臣下の殉死も習慣化していたようです。

レンブラント『サウルとダビデ』(1660~65年頃、ハーグ、マウリッツハイス美術館)

しかし、これらの国家も、磐石に繁栄を続けたわけではありません。国内諸侯の独立などの内情不安もあれば、外敵の侵入も度々起き、その都度王朝は凋落しました。

ところで、これらの王たちは国境を示すために、自らの像を街道に設置したといいます。自らに似せて、像を国の境界線に置いたというのです。人間の王が自分の領土の周辺に自分の像を置いたことに対比してみると、創世記1章では、神が自らに似せて人を世界に置きます。真の王である神は世界を造ってそこに人間を置いたという、聖書に独特の神学、つまり神こそが王であるという神観が既にそこには見られるように思います。

 

イスラエル民族の誕生とペリシテ人

イスラエル民族に王が生まれるのは、メソポタミアやエジプトのこのような時代と並行はしていても、ずっと後のことです。それは、紀元前12世紀から11世紀にかけてのこと、ペリシテ人と同じ時代にパレスチナ地域に定住し始めたイスラエル人が、常備軍を備えた「普通の国になりたい」と言い募ったことがきっかけでした。そのような主張が出始めたとき守旧派は、真の神はエジプトから導いてくれた神だけだとして突っぱねたのですが、時代の変化には抗えなかったのでしょう。聖書には、サムエルという民族のリーダー(士師といいます)がサウルという若者を王にする決断を下す物語が収録されています。

ここで、このときもその後も抗争を続けたペリシテ人という人々についても見てみましょう。ローマの時代になってから、彼らが語源となって「パレスチナ」という地名が生まれたことはとても有名です。彼らの出自は、どうやら「海の民」と呼ばれる一種の海賊の末裔か、そこから枝分かれした人々だそうです。

彼ら「海の民」はいわゆる「前1200年のカタストロフ」と呼ばれる地中海東部の大規模な社会変動の引き金のような存在だったとも言われています。彼らとの小競り合いと気候変動その他複数の要因が重なり、エジプトは衰退、ヒッタイトは崩壊して製鉄技術が流出、ミケーネ文明が崩壊、さらに軍事バランスが狂ったことや盛んだった交易が滞ったことにより、メソポタミアにも大きな影響が及んだといいます。いずれにせよ、この動乱が青銅器時代を終了させ、鉄器時代を迎えることになりました。

よく知られているように、聖書には「出エジプト」と呼ばれる出来事が伝えられています。この聖書の物語に少しでも史実的な背景があるとするならば、もしかしたらこのような時代の変化があったのかもしれません。苦役を課せられていた捕虜が、いのちからがらエジプトを脱出し、パレスチナにたまたま居つくようになった、そうした人々が後に少しずつイスラエルの民になっていったという想定です。最近そのような可能性を暗示する研究書が出版されました。

また、紀元前1200年頃にハビルと呼ばれる集団がパレスチナを荒らしていたそうです。エジプトのテクストではアピル、アッカド語ではハビルと呼ばれるこの人々は、民族というよりは、一種の社会階層と考えられています。学者いわく、「既成の社会秩序に含まれず、法的保護の枠外にあるような集団」。つまり、難民のようなものです。しかもこのハビルという語はヘブル、ヘブライ人とも繋がりうる、大変注目すべき言葉です。

このような難民状態の人々は、とにかく生きてさえいられれば十分ですし、仮に生きながらえることが出来たなら、それは神のおかげ以外の何物でもないと思ったことでしょう。

そのような過酷な体験が出エジプトの物語の背景にあるように思うのです。困難から解放されるという同じような体験をした人々が集まって、やがてイスラエルになったのかもしれません。もちろん、そう単純なことではなく、そのプロセスは学者の間でも今なお激しく議論されています。おそらく、一つの回答があるというよりは、複数の要因が複雑に絡み合っている、というのが実情でしょう。仮に多くの人々が集まってイスラエルになったのだとしたら、私たちが聖書を読んでイメージするような宗教にはならず、多神教になってしまうからです。

ところで、仮に海の民が大暴れしたことによってイスラエルが生まれる原因を作っていたとして、その末裔であるペリシテ人がまたイスラエル民族に王制を導入させるきっかけとなってしまっていたとしたら、これはこれで皮肉な話です。いずれにしても、イスラエルは時代の変化に合わせて王制を導入したということです。外圧が時代を変えた好例ともいえるでしょう。

 

ミケランジェロ『ダビデ像』(レプリカ)

サウル・ダビデ・ソロモンという王たち

さて、旧約聖書も新約聖書も、同じようにキリスト教の聖典です。従って、そこにはさぞかし尊いことが書かれていると、普通はお思いになることでしょう。

王、というテーマについても同じように想像されるかもしれませんね。つまり、さぞかし立派な人物が登場し、正しい裁きと善政を敷く模範的な統治を行うような聖人が描かれており、現代の人々にとっても模範となる、という風に。

しかし残念ながら、それはまったくの誤解です。

サウルやダビデ、ソロモンという王の名前くらいは誰も知っていることでしょう。これらの王たちと歴史を概観してみましょう。

 

《サウル》

サウルは、先ほど述べたペリシテ人の脅威に対して、イスラエル人にも戦争を指導する王が必要だという世論が起きたために即位することになった王です。彼の最大の貢献は常備軍設置直後に、このペリシテ人の脅威を一時的ではありましたが排除したことでしょう。

しかし当時まだ生きていた士師サムエルから様々な行為を酷評され、廃位を宣言されてしまいました。さらに台頭してきた若者ダビデの活躍に嫉妬し、心を病んでしまいます。

それで、再び勢いを取り戻しつつあったペリシテ人への対応を怠ってしまい、結果、ペリシテ人に反撃されてしまいます。ギルボアの戦いで、サウルやその子息は壮絶な戦死を遂げました。

 

《ダビデ》

ダビデはサウルが依然として王として支配していた時期に、まずユダ族の王として即位します。これは実質的には後の分断国家の遠い原因をもたらすこととなります。最初はサウルの娘ミカルと結婚していましたが、サウルとの対立が激しくなるにつれてやがて奪われてしまいました。

ギルボアの戦いの後イスラエルの王になったダビデは、ペリシテ人の脅威を決定的に取り除くことに成功します。ペリシテ人のもとでサウルへの反撃の好機をうかがっていたこともあり、ダビデはその頃身につけたペリシテ人の戦術を逆手にとって彼らを打ち破ったと想像する学者もいます。

ペリシテ人を排除した後、エブス人の町だったエルサレムを征服し、新たな王都、「ダビデの町」とします。

これは旧来の保守的な宗教的権威を排除するにはさぞかし好都合だったことでしょう。しかし神殿を作れるほどの変化ではなかったようです。また、急峻な国土に領土を持ち異民族まで支配する帝国を造り上げたのは大きな功績です。この時代の軍事的・政治的栄光は人々の記憶に深く刻まれました。後代の苦難の時代、ダビデを理想的な王として描く、苦難から解放してくれる第二のダビデ待望論、いわゆるメシア思想がここから現れていきます。

しかしダビデの治世の半ばから後半は聖書でも様々に描かれます。自らの武将ウリヤの妻バト・シェバを妊娠させてしまう話はあまりにも有名でしょう。アブサロムの乱やシバの乱は、民衆の不満の現れだったといわれています。後継者争いもあったようです。アムノンとアブサロムの対立、さらにアドニヤとソロモンの対立は宮廷を二分しました。

 

《ソロモン》

ソロモンは後継争いに勝利した後、王位を簒奪する恐れのある者を次々と粛清し権力を安定させました(王上2章)。そして近隣国家との条約と平和外交、政略結婚により平和的発展をイスラエルにもたらしました。また、経済的発展ばかりか、この時代に成立した大規模な国際交流は知恵を、つまり情報と文化をもたらしました。後代の聖書の伝承が知恵文学とソロモンを結びつけるのはこのような歴史的背景が反映しているのでしょう。

エルサレム神殿が建立されるのもソロモン王の時代のことです。

エジプトから民を導き、荒れ野を民とともに歩む神という旧来の宗教勢力がこの頃までには衰退していたことが想像されます。神殿とは実にカナン的、当時は異教的な観念でした。

神が王であると同時に人間の王がいて、しかも王が神殿を作ることができるというのは、新しい神学なり神観が成立し、それに対抗する神学を排除できたから、と言えそうです。もちろん、後々これらの神学は総合されていきます。

 

エドワード・ポインター『シェバの女王の訪問』(1871~75年、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館所蔵)

《王国の南北分裂》

ソロモンがもたらした経済発展。しかし流入する富が偏らないわけがありません。一般民衆の不満はソロモンの死を待つ前に爆発しました。ヤロブアムの乱がそれでした。

神殿建築のために北イスラエルの諸部族を強制労働に徴用したことが背景にあるようです。この乱は、一時は鎮圧されますが、ヤロブアムはエジプトに避難、ソロモン死後の動乱で大きな役割を演じることになります。

ソロモンの治世の間、莫大な宮廷費の捻出を押し付けられたイスラエルの諸部族にとって、その軽減は大きな希望でした。しかし、ソロモンの次に王になったレハブアムはこれに弾圧でもって応えてしまいました。これを受けて、人々はかつてソロモンへの反乱を指導したヤロブアムを北王国の王として迎えます。こうしてイスラエル王国は南北に分断してしまいました。前述の通り分裂の根はサウルとダビデの頃からありました。

これ以降、紀元前920年頃から北イスラエル王国と南ユダ王国の分裂国家体制が200年ほど続くこととなります。北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡する720年頃までのことです。

南ユダ王国では、ダビデの血統とその王朝が永遠に続くというダビデ預言が功を奏してクーデターはほとんど起きずにダビデ王朝が存続しました。

一方、北イスラエル王国では自らの子に王位を継承できたのは19人中9人。王権が極めて不安定でクーデターによる王朝交代が頻発したことが特徴です。

前8世紀のヤロブアム2世(北王国を創始したヤロブアムとの血縁はありません)の例外的な経済的繁栄の時代に現れて、社会の不正義を告発したアモスやホセアのような預言者が、王権を批判する側に回ったことも王権を動揺させた大きな一因だったことでしょう。

この時代の王たちは、往々にしてイスラエルの神に対して、というよりは、近隣諸国やエジプト、アッシリア、バビロニアに従順だったといえます。エジプトかアッシリアいずれかの軍事ブロックに所属しなければ、とてもイスラエルのような小国はとても生き残ることはできなかったからです。

 

理想の王?――王に関する教え

あるべき王の姿は、聖書にはまったく収録されていないのでしょうか?

これにまつわって、注目すべき律法が旧約聖書の申命記という書物にあります。

王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。

(申命記17章16節)

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古代社会では王は絶対的な権力者であり、その下に法律があるものです。ところが、申命記には王の権力を制限する、まる近代憲法のような規定があるのです。

ここでは、馬を増やしてはならないといわれています。馬は古代では軍事力の象徴です。つまり、軍備をむやみに増やすなという制限なのです。

「民をエジプトに送り返すな」とは、奴隷を売却して馬を得ることを禁止しているのかもしれませんし、エジプトとの宗主権条約や安全保障条約を結ぶために民を派遣することを禁止しているのかもしれません。学者たちの間で解釈が分かれています。

イスラエルのような小国は大国の傘に入らなければ生き残ることができません。軍備のために再び奴隷になるなと言っているのでしょう。

戦争に関する王の権力はさらにこのように制限されます。

いよいよ戦いの場に臨んだならば、祭司は進み出て、民に告げ、次のように言わねばならない。「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。」

(申命記20章2~3節)

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この、申命記20章には戦争についての規定がまとめられています。戦争を指揮するのは王の大きな役割の一つのはずですが、ここでは軍隊を指揮するのは王ではなく祭司になっています。

さらに、国内外に豊かさを見せびらかすための豪奢な生活が禁止され、司法権についても王から独立した裁判官の手に委ねられています。上告された場合についての規定がありますが、その場合でも王ではなく祭司または裁判人に委ねられています。

王は、祭司に対してまるで従属しているかのように扱われています。

彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない。

(申命記17章18~19節)

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ここでの律法とは、申命記に収められる掟の全体を指すものと言われています。

しかも、この法律の原本は祭司が持っていますから、王はこれを書き換えることができません。こうなると、王は国民の模範となるよう祭司によって監視され、権威というよりは、役割としての行政機関に過ぎないということになります。国家観も権力観も変わってしまう、驚くべき未来社会論です。

ところで、こうした権力移譲によって、祭司が絶大な権力を持つことになりそうですが、ここにも制限が加えられていきます。古代における祭司は神のお告げを民に伝える重要な役割を果たしていました。しかしこの権利を申命記は奪い取ってしまいます。

主はそのときわたしに言われた。「……。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」

(申命記18章17~18節)

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ここでは神の発言をモーセが再現していますので、「わたし」は神、「あなた」はモーセを指しています。シナイ山で律法を受け取ったモーセも預言者と呼ばれるわけですが、神のことばを受け取って伝える役割が預言者に与えられ、祭司の役割は王権のチェックと掟の教育に制限されることになります(申命記31:9~13)。

 

四権分立

王の権力の一部が祭司に、祭司の権力の一部が預言者に分散されました。

ここでは、王、祭司、裁判人、預言者という四権が分立しています。国家の権力に対してこれほどの制限をかけ、しかも神の律法に従ってそれぞれがしっかりと役割を果たすよう、お互いにチェックし合うという、この仕組みを誰が考えたのかはわかっていません。南ユダ王国のヨシヤ王の時代に、エルサレムの神殿から見つかったと言われる巻物が、この申命記またはその一部だと言われています。しかしその著者は歴史の闇の中です。

そして、この理想的な「憲法」が実際に施行されることはありませんでした。バビロン捕囚によって王がいなくなり、また預言者もいなくなってしまったからです。彼らがいなければこの制度は始まりません。そして、旧約の時代もやがて終わっていきました。

 

新約、そして現代へ

「ダビデの子」と言われたイエス・キリストは、人々によって理想化された「苦難からの解放者」ではない形で、人々の間に現れました。人々を分断するあらゆる壁をとり去る神の国の福音を宣べ伝え、たとえ話で語ったばかりか奇跡によって実践もしたと新約聖書は伝えます。

そのイエスはローマ帝国に納税するべきか問われた際、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えました。コインには皇帝の顔が刻印されていようとも、神に似せて造られた人間は神のものだということでしょう。

バビロン捕囚を経て、アケメネス朝ペルシア、セレウコス朝シリア、そしてローマという外国に支配されてきたイスラエルの人々。そして、パクス・ロマーナの時代に「平和の君」「神の子」「救い主」、と言い伝えられたイエス・キリストと、そのメッセージ。それは、目まぐるしく変化する地上の歴史や国家体制に対する、単なる反体制活動家以上のものです。イエス・キリストは、地上の歴史を越える存在であり、真に新しい歴史をもたらす存在だからです。

 

【参考文献】
山我哲雄・佐藤研『旧約新約聖書時代史』(教文館 1992年)
エリック・H・クライン『B.C.1177』安原和見訳(筑摩書房 2018年)
佐久間勤『四季おりおりの聖書』(女子パウロ会 2001年)

 


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