高山右近の列福式に参加して

開式前(画像はすべてクリックで拡大します)

2017年2月7日、神のしもべ ユスト高山右近の列福式ミサがアンジェロ・アマート枢機卿の主司式によって、大阪城ホールで執り行われました。

開場時間に到着すると、ホールの外はたくさんの人であふれていました。予想外の光景に足早に入場してみると、すでに多くの席が埋まっており、列福式の開始を今か今かと待つ人々の熱気が感じられました。

右近のゆかりの地である大阪で、平日の昼間の開催にも関わらず、関西圏だけなく全国からたくさんの人が集まっていました。現地での参加が難しかった人もYou Tubeの生中継を通してご覧になった方が多くいるのではないでしょうか。

正午になると鐘が鳴り、列福式はアマート枢機卿をはじめとする多くの大司教、司教、司祭、奉仕者の行列によって荘厳な雰囲気を伴って始まりました。アマート枢機卿はラテン語で式文を唱え、会衆は日本語で答えるという特別な形で、また朗読や共同祈願、聖歌は日本語だけでなく英語やタガログ語、ベトナム語、韓国語も用いられるなど、右近の列福を喜ぶすべての人々のためのミサであるように感じられました。

入祭

教皇書簡代読

十字架と祭壇

聖遺物顕示台に献香

列福の儀はミサの最初の方で行われます。フランシスコ教皇の代理であるアマート枢機卿によってユスト高山右近を福者の列に加える教皇書簡が読み上げられると鐘の音が響き渡り、肖像画の除幕、そして右近の聖遺物を収めた顕示台が安置され、アマート枢機卿によって献香が行われました。この一連の流れは列福式ミサの中でとてもシンボリックな瞬間だったように思います。

アマート枢機卿

退堂

列福請願者である岡田武夫 東京大司教が謝辞を述べられるとアマート枢機卿が笑顔で岡田大司教を呼び寄せ、あたたかなハグをして、教皇書簡の写しを手渡したシーンは大変印象的でしたし、終始やさしい笑顔を浮かべるアマート枢機卿はわたしたちに列福の喜びを運んできてくれた、まさに神さまからの使いのようでした。

長い年月を経て、日本の教会にとって、また多くの人々にとっての悲願だった高山右近の列福は多くの人々の尽力と祈りによって、ついになされました。そのことをたくさんの人々で埋め尽くされた大阪城ホールを見て感じ、大きな喜びと希望と感動、そして感謝の気持ちでいっぱいになりました。

スタンドに手を振るアマート枢機卿

高山右近の最期は病死だったため殺されたわけではないですが、その人生が殉教であったと認められ、「殉教者」として列福されたところにそのユニークさがあります。その右近だけが持つ人生の歩み、そして信仰の歩みからわたしたちはなにを学び、生きることができるでしょうか。

列福式後、右近の列福について分かち合う機会がありましたが、みな喜びに満ちあふれていました。神さまはわたしたちのためにユスト高山右近という人を送ってくださいました。その恵みに感謝し、わたしたちも右近とともに、右近のように歩んでいくことができますように。

文・写真=川尻有理紗(京都司教区信徒)


高山右近と霊操

土屋至

加賀乙彦著「高山右近」(講談社文庫、2016年刊)を読んだ。この書は高山右近の後半生、加賀藩へ客将として迎えられたときから追放、さらに死の場面までを描いている。とくに右近が霊操をしていた場面が詳しい。

「霊操」とはイグナチオ・ロヨラが開発した30日間の黙想のプログラムである。特に聖書の場面を黙想することが多い。

右近が受難の黙想をしているときの文を読んで、私ははたと思い当たることがあった。「イエスがイバラの冠を押し被せられるときの痛みを黙想しなさい」「十字架につけられる場面で掌に釘打たれる場面の激痛を味わってみなさい」というような黙想指導の場面である。

実は私はこの黙想を高校2年生にしたことがあるのだ。ドイツ人のイエズス会士、学校では物理の先生だったウルフ神父に指導を受けたのは、まさに右近がしているのと同じ受難の黙想であった。至少年も「う〜ん」と呻吟しながらもまじめに取り組んだ。「あれは霊操であったのだ」「右近もそれを体験しているんだ」と感激したのである。

加賀乙彦「高山右近」によると右近はそれをまじめにやり過ぎて「聖痕」がイエスの傷のあったところにできてしまったと書かれている。私は聖痕こそできなかったがでもまじめに取り組み、私の信仰を一挙に強め深めたと思っている。

そして右近は「霊操」を経験してほんものの普遍心を獲得し、長崎に行ってハンセン病の患者にふれることに抵抗がなくなり、迫害も拷問も耐えられる自信を得たとも書かれている。       (土屋至 元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)
高山右近と霊操

イグナチオロヨラと霊操