わたしの信仰生活日記ー神の存在証明ー(11)安心して生きる?(前編)


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

ごらんよ空の鳥 野の白百合を
蒔きもせず 紡ぎもせずに
安らかに生きる
こんなに小さな命にでさえ
心をかける父がいる
友よ 友よ今日も 賛えてうたおう
すべてのものに しみとおる
天の父の慈しみを

(典礼聖歌391番)

 

1. 存在肯定の「being」とは。

あるとき、「安心して生きたい」という願望を友人から聞いた。安心して生きるって、何だろう。確かに、日々生きていく中で、どれだけ進路や方向性が明確でも、遠い将来のことや突発的な出来事が起きたらと考えると、不安がなくなる時なんて永遠に訪れないように感じた。でも、なぜか昔ほど、身体的や精神的にそわそわして仕方がない、怖くて夜眠れないといった焦燥のような不安はない気がする。自分が中学生や高校生のときは、原因は明確だが死ぬほど不安だった。そして、大学生になっても、ずっと不安だった。だから私が20歳で洗礼を受けたときに「この不安がなくなりますように」と願った。

洗礼とは、人間が無資格で得ることのできる「神の恵みのしるし」である。私たちは何も与えず、何も失わず、引き受ける。無償の恵み、一方的な恩恵である。初めて会った人でも、その人がキリスト者だと聞くと、何の根拠もなくこの人は安心できるのかなぁと、少しだけほっとする。だから、そういう意味での「安心」ならあるし、私の不安の消失のきっかけはキリスト教に出会ったことが大きな要素の一つだった。

それ以外にも、年齢を重ねたことや精神的・身体的な成長、アルバイトの経験によって自信がついたこと、コミュニケーション能力が上がったこと、選択肢が何事に対しても豊かになったことなどが理由として挙げられるが、この先安心して、勇気を持ってこの世界を生き抜けるかはわからない。今でも合否や可否でドキドキすることもあるし、思い通りにいかないこともある。ただ、そういう時にくよくよせず、新しい道をすぐに探す能力は上がった気がする。失敗を繰り返す中で、いい失敗後の姿勢・受け身のとり方を知った。辛いことがあっても、私の身体は生きようとする。泣きながらごはんを食べるときもある。胃腸薬を飲むときもある。私の魂も生きようとする。礼拝に出たり、講演を聞いたり、教会の活動に参加する。結局、そこなのかなぁ。

私の周りには存在するために条件をつける「doing」よりも、ただ存在を肯定する「being」を大切にし、「あなたはそこにいるだけでいい」という言葉を大事にする人たちが多い。確かに、キリスト教コミュニティには他者に対する優しさを身につける機能があると思う。他者性を大事にし、愛による交わりと助け合いが実在している。他では知ることのできない、不思議な特殊能力とでもいうべきものが存在している。

でも、私は洗礼が「being」の約束だとは思わない。「あなたはそこにいていい」というものだけでは、本当に存在を肯定しているとは思えないからだ。私にとって「あなたはそこにいていい」という言葉は、嬉しい言葉ではあるけれども、それだけでは辛い時期もあった。ただ許可を受けてそこに存在するだけだったら、なんだか地蔵や置物と変わらない気がして、あまり嬉しくないときもあった。

おそらく本当の「being」は、とてもクリエイティブなのだろう。人間が何かを作り、表現したい生き物だから、存在するだけで価値があるというだけでは、人間の「生きる」ことを維持できないと思う。「no art, no life」というNHKの5分番組があるが、それを観ていると、言葉が話せず、言葉を文字で使用することも困難なほどに身体に障害がある人でも、絵画を描き、物を作る。人間は言語によるコミュニケーションの可能性を失った人に対して、理性的に接することをかなり放棄してしまう傾向があると、福祉施設でアルバイトをしたときに強く感じた。また、私自身が吃音や様々な後遺症の関係で、上手くコミュニケーションを取れないが、文章はある程度書けるという時期があった。今でもそれに近いものがあるが、書くことも会話することも、礼拝やミサで歌うときも、何かに積極的に参加し、伝え合い、交わりがあることで、そこに神の国を感じ、神の愛を感じる。表現する、という望み。人間にはそういう「創造したい」という欲求が備わっているように思う。神さまも、創世記のときには同じように愛するものを創造したかったのだと思う。一緒に愛を分かち合いたかったから、人間を創造したのだろう。天を造り、地を造り、太陽と月と動物を創造し、草花を生み、人間を作るという、この世界の礎の物語。

私が私であるままに受け入れられるとは、とてもクリエイティブな事柄を交えて、完全な肯定がそこに実現するということである。そこには戦いも敵もなく、周りと共に切磋琢磨していく「being」がある。言葉でも、物でも、信仰を表明し、共有し、分かち合うこと。それは、私にとってとてもクリエイティブであると同時に、生きる喜びなのだと感じる。そこには神の働きもあり、不思議なつながりや絆が生まれていく。より深く神を知り、より深く神と共にいる。それは、終わることがない愛の交わりなのだろう。

聖職者や修道者ではなくても、信徒として教会のために積極的に働きたい人はたくさんいる。イベントを企画したり、勉強会を行ったり、社会活動に参加したり、出来る範囲で御国の到来を手伝いたい。そして、自ら参加し、主体的に関わることによって、もっと教会のことを知りたいし、この先の教会の未来を共に考えたい。そういうクリエイティブな信仰生活を、私はこれからも歩みたい。

(続く)


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