こころを開く絵本の世界2 〜新しい日常が始まる〜


山本潤子(絵本セラピスト)

 手放せないもの

今住んでいるマンションに引っ越した時、泣く泣く手放したものがあります。

それはピアノ、引っ越しの多い私たち家族といつも一緒でした。
週末のジャズバンドでサックス奏者だった夫が仲間と選んでくれた娘のピアノです。台所で夕食の支度をしているとピアノの音が聞こえてくる、湯山あきらの『バームクーヘン』をよくリクエストしました。鍋の湯気が音符のように流れる幸せな時間、今も私の心を温めてくれる懐かしい情景です。

ある日、ピアノの絵本が欲しくて検索していると、その懐かしい情景が目に飛び込んで来ました。

メロディ だいすきなわたしのピアノ 
ヤマハミュージックメディア、くすのきしげのり:作、森谷明子:絵

女の子の5歳のお誕生日に家にやってきたピアノはメロディと名づけられました。女の子とメロディは毎日はずんだ音を響かせます。しかし、女の子の成長とともにメロディの出番は少なくなり、とうとうある日、工場に運ばれてしまいました。メロディは工場にいた他のピアノに自の運命を重ね、静かに眠りにつきました。ところが眠っている間にメロディはきれいに磨かれ、生まれ変わり、見知らぬ家に運ばれます。そして、母親となった女の子の懐かしい指と再会するのです。

女の子とメロディの関係は、世代を超えて次から次へと引き継がれていくことでしょう。

 

ところで、ピアノほどの存在感はなくても、周りに理解されなくても、その人にとってかけがえのない大切なものがあります。

行く先々でこの絵本を読み、たくさんの「手放せないもの」を教えてもらいました。

「チラシに書かれた孫の手紙」「母の女子挺身隊のバッジ」「形見のフルート」、中には目に見えないものもありました。

 

ある小さな山村、小中学生、教職員、保護者の集まるワークショップでの出来事です。

「なかなか手放せない大事なものがありますか?」と絵本を読んだ後に問いかけ、ワークシートに書いてもらいました。ちょっとヤンチャな一年生が真っ先に「書いたよ!」と手を挙げました。どれどれとワークシートを覗くと大きなひらがなで『かぞく』と書いてあるのです。隣にいたママはそれを見て号泣しています。私には知る由もない家族の物語がきっとあるのでしょう。男の子のちょっと照れたような笑顔が印象的でした。

次々に手が挙がります。4年生の男の子は恥ずかしそうに「安心毛布」と発表しました。横にいたお母さんが「赤ちゃんの時の毛布、もうボロボロなんですけどね」と、会場に笑い声が溢れました。

二人の発表の後、場の空気は一気に和み、私にとっても忘れられない一コマとなりました。

 

ところで、去年から繰り返される緊急事態宣言の影響もあり、人が集まるワークショップやコンサートは制限されることが多いこの頃です。海外渡航も困難な中、ドイツ在住のピアニストの友人が5月に日本に帰ってくることができました。例年のようなコンサートはできませんが、必要な配慮の中、ある家でホームコンサートを行うことになりました。
何年も飾り棚になっていたそのピアノは、今は海外で暮らすお嬢様のピアノです。数十年ぶりに調律され、息を吹き返したかのように美しい音を響かせました。

ピアノ演奏と聴いているご家族の後ろ姿を動画に収めながら、「ここにも生まれ変わったピアノ、メロディがいる」と、私は胸が熱くなりました。

誰にでも起こり得るメロデイ現象、そこで絵本を読まなくても一冊の絵本が私の細胞の一部になっているような感覚、『手放せない絵本』がまた一冊増えたのでした。

 季節の絵本

『槍ヶ岳山頂』
川端誠 作/絵、BL出版

夏といえば登山、一度は歩いてみたいアルプス銀座は燕岳から槍ヶ岳を目指す人気のコースです。

作者は10歳の息子を連れて槍ヶ岳山頂を目指します。5年生の息子にとっては初めての北アルプス縦走、ご来光で太陽のスピードを知り、行き交う人たちと挨拶を交わし、高度と共に変わる景色に心躍らせます。しかし、槍ヶ岳の直前には深い谷が待っていました。せっかく時間をかけて高度を稼いで来たのに一気に下らなければなりません。谷底で腹ごしらえをして今度は一気に急な上りです。雨の中ガスもかかり、きつい上りの連続に「くるんじゃなかった」と本気で後悔しても前に進む以外ないのです。「もうダメだ」と何度思ったことでしょう。そして、ついに「見上げてごらん」、お父さんの声の先には覆い被さるように槍ヶ岳がそびえ立っていました。山頂で歩いてきた尾根を見渡しながら経路をたどり、急に涙が溢れてきます。「歩いたなあ」お父さんの言葉に声が出せない息子。ちょっと無理を承知で息子を信じ、見守りながら成長を確信していく父親の在り方と、お父さんの背中を必死に追いかける息子の姿に、高山植物がエールを送っているようです。登山映画を観ているような、清々しい風が吹き抜けました。

 

絵本の力はすごい!

次の日には全身筋肉痛が起こりそうな疑似体験と、私にも確かにあった辛さ、喜び、諦め、達成感、あらゆる感情の再来に、文字が滲んで読めません。

私が初めて本格登山に挑んだのは18歳の秋、兄妹二組、4人で爺ヶ岳から鹿島槍ヶ岳を縦走しました。爺ヶ岳山頂にテントを張り、深夜に外に出ると満天の星空、月に照らされた剱岳の震えるほどの神々しさに、息をのみました。

いつの間にか兄が後ろに立ち「凄いだろう、劔はお前にはまだ無理だよ!」、その通りだと思いました。翌朝は暗いうちにテントをたたみ鹿島槍ヶ岳山頂を目指しました。そして、人生に刻まれるご来光を拝み、私も太陽のスピードを知ったのです。

 

「槍ヶ岳山頂」は落語絵本で人気の川端誠さんの作品です。

写真のように精密な絵と実際に登ったからこその心の描写、山好きにはたまらない要所要所の地点名が次々と繰り出されます。燕山荘から槍ヶ岳、山登りに慣れた頃、ガイドブックを読みながら何度もイメージトレーニングを積んだ北アルプスの人気コースです。この絵本を読んだ人は間違いなくこのコースに挑みたくなるでしょう。また、かつて縦走した人は記憶が鮮明に再現されるでしょう。

絵本がまさかの最高のガイドブック、絵本の無限の可能性をまた知ってしまったのです。

(ここでご紹介した絵本を購入したい方は、ぜひ絵本の画像をクリックしてください。購入サイトに移行します)

 

東京理科大学理学部数学科卒業。国家公務員として勤務するも相次ぐ家族の喪失体験から「心と体」の関係を学び、1997年から相談業務を開始。2010年から絵本メンタルセラピーの概念を構築。

https://ehon-heart.com/about/


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

three × 5 =