ミサはなかなか面白い 90 ミサは祝福であふれている


ミサは祝福であふれている

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答五郎 こんにちは。連載が始まってもう3年。回も重ねて90回。

 

 

女の子_うきわ

美沙  人間でいえば「卒寿」ですね。

 

 

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答五郎 卒業が近いということかな(笑)。100 回までは続けたいと思っているけれど。

 

 

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問次郎 100回といわず、150回でも 200回でも!

 

 

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答五郎 それは、君たちがミサについてどれだけ問いをもつかにもかかっているよ。一応、このシリーズは、ミサの式次第に沿って考えていくという趣旨だから、閉祭に入った前回からはいわば最終部だ。

 

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問次郎 わかりました。そこで、祝福とミサ、というテーマが前回予告されていますが、それは……

 

 

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答五郎 直接のきっかけは、聖体拝領のところで、信者でない人は聖体を受けられないが、祝福は受けられますというような実践が広まっていることだった。

 

 

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問次郎 はい、そうです。自分も、そこで並ぼうかどうしようかと思うのですが、席を立たないと、あとに立つ人の邪魔になりそうなので、結局立って、祝福を受けています。

 

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答五郎 そのことも、実際、この実践の一つの理由といえるかもしれない。座席と座席の間が狭いとき、信者でない人が座ったままでいると、前を通っていきにくいからね。

 

女の子_うきわ

美沙 でも、ミサと祝福の関係は、そこだけではない、とおっしゃりたいのですよね。

 

 

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答五郎 そう。それは、ミサの開祭から閉祭まで、ずっと関係があることなのだよ。

 

 

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問次郎 聖体拝領のところだけで問題になることではないということですね。

 

 

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答五郎 聖体の恵みを受けられない人が、代わりに祝福は受けられますというと、どう感じるかな?

 

 

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問次郎 祝福が聖体の恵みの代わりのもの、代替品、価値としては低いものという感じが正直します。

 

 

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答五郎 だろう。そうなると、祝福はそこだけ、聖体の代わりとしてだけで考えられてしまう。そうではない、という点をよく考えたいのだよ。たとえば、開祭でいうと挨拶のことばだ。たとえば、

 

女の子_うきわ

美沙  「イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんともに」ですね。

 

 

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答五郎 それなども、使徒の手紙(2コリント書13・13)からとられていて「使徒的挨拶」ともいわれる。ミサのこの挨拶も根本的には祝福のこもった挨拶にほかならない。キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがこの集いとともにあることを確認する意味もあるけれど、それを公言し合うことで、そのことがさらに力強いものとなる。このようなことも祝福を表しているのだよ。直接「祝福」ということばが使われていなくてもね。一番短い「主は皆さんとともに」もやはりそうだ。

 

女の子_うきわ

美沙  それに対して、信徒が「また司祭とともに」と応唱するところが、ほかに4回ありますよね。福音朗読の前、叙唱の前の対話句、平和の挨拶の前、そして……

 

 

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答五郎 閉祭のところ、まさに神の祝福を告げるところだ。

 

 

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問次郎 挨拶がすでに祝福だとしたら、「派遣の祝福」と見出しのついているところは、祝福の意味が重なっているともいえるのではないでしょうか。

 

 

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答五郎 そういえるかもしれない。はっきり「祝福」ということばが出てくるしね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」「アーメン」ですね。

 

 

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答五郎 ミサの意味をまさにここに見る立場もあるよ。神の祝福を受けて、「行きましょう」、文字どおりには、「行きなさい」と言われて世の中に遣わされていくのがミサだという意味でね。

 

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問次郎 「イテ・ミサ・エスト」ですね。前回、学びました。

 

 

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答五郎 もちろん、ことばの典礼で福音が告げられるということは、まさしく神の祝福がこめられていることばを聞くことであるし、感謝の典礼では、イエス・キリスト、とくにその死と復活において凝縮されている神の救いの恵みが示されるわけで、それは、祝福よりももっと根源的な恵みというべきものだ。だからといって、祝福と聖体の恵みがはっきりと切り分けられるものではないよ。

 

女の子_うきわ

美沙 つまり、こういうことでしょうか。ミサは、初めから終わりまで、徹頭徹尾、祝福の典礼であり、祝福の祭儀であると。それは、すべての儀式がそうなのかもしれません。その中でもっとも深いもの、高いものが聖体の恵みというふうに……

 

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答五郎 なるほど。たしかにね、聖体の恵みは祝福の中の祝福というべきものだね。そして、最後の派遣の祝福ではっきり示されているのは、結局、ミサはずっと祝福を表しているということだと思うよ。

 

女の子_うきわ

美沙 すると、ミサには参加してさえいれば(見学だけでも)ミサ全体に含まれる祝福を感じられるということですね。実際、ミサに出て力をもらえたと実感するのは、祝福という恵みなのですね。

 

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問次郎 では、聖体拝領のところで、立って並んで、祝福を受ける意味は何かという問題に戻ってきます。

 

 

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答五郎 祝福を受けるというのは、どんな場合でも、一人ひとりに神の祝福があるように願われるという祈りのことだからね。それが一人ひとりに告げられるということは、個々人への信仰への招きであるといえるかもしれないね。だからといって、本来、ここだけが祝福なのではなく、ミサ全体が祝福に満ちているものだという理解も育てないとね。

 

女の子_うきわ

美沙  ミサには祝福があふれかえっているのですね。

 

 

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答五郎 なんとなく厳粛で暗い感じを受けることが多いかもしれない。でも、福音という喜びの知らせが響いていると思えるようになるミサにしていくことが大事だと思うよ。そして聖体の恵みを頂点かつ源泉として、祝福は全体にあふれかえっていて、それは、一人ひとりの派遣を通じて、世の中の人々にまで及ぼされていくものとなるのさ。

 

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問次郎 ミサをどう理解するかという点で祝福は重要なのですね。一方で、ミサは、賛美と感謝が中心ともいわれているのを聞きます。それらと祝福との関係はどうなのでしょうか。

 

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答五郎 ほう、大事なことを問いかけてくれたよ。もちろん、深い関係があることだよ。それは、次回考えるということでいいかな。だんだん総復習的になっているね。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

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