佐渡の昔話「キリシタンお島と猫」を考える


石原良明

日本は古事記や日本書紀等の神話をはじめ、膨大な、数多くの民話が各地に存在する。それらは忘れられてしまったものもあるのかもしれないが、伝承文学の研究者によって採集され、活字で読めるものも少なくない。

昔話には、たとえば庶民に伝わる習俗や地名の由来、有名な人物にまつわる言い伝え、生活していく中で尊ぶべき価値観、それこそ表面的な善悪を度外視してでも困った人を助けるというような、こころ温まるエピソードも伝えられている。最近ではナショナリズムの高揚が叫ばれることがあっても、日本の昔話が注目されることはあまりないようだ。

そのような昔話の中に、キリシタンにまつわる話を見付けることができたので、ご紹介したい。

 

佐渡の昔話に、「キリシタンお島と猫」という話がある。

厳しくキリシタンが取り締まられていた時代、佐渡の相川にお島という美しいキリシタンの女性が住んでいた。ある日お島は捕えられ、奉行所で取調べを受けた後、磔死罪を言い渡された。

牢に繋がれたその日の晩、奉行所吟味役の渡辺藤左衛門がひそかにお島を訪ねた。渡辺は実は自らもキリシタンであることを明かし、十字架を見せ、牢から逃げることを勧めた。しかしお島は頑としてはねつけ、死をもって信仰を証しする覚悟を見せた。

翌日の夕方、お島は中山峠に白い着物で連行され、磔にされた。若い生涯だった。

その晩未明。なんと驚くべきことに奉行所にお島が現れたのだ。奉行はもちろん役人たちは大慌てする。お島は、父の危篤という急な報せで羽茂の実家に帰ったのだが、父はぴんぴんしており、不思議に思いつつも相川に引き返す道すがら、「キリシタンのお島が磔にされて亡くなった」という噂を聞いた。それで時間もいとわず奉行所に真偽を尋ねに来たのだという。

奉行が手下を連れて中山峠に行ってみると、磔にされて血を流して死んでいたのは白い猫だった。これはお島の実家で飼われていた猫だったのだ。すっかりうろたえた奉行は主な役人を集めて協議するのだが、ここで知恵を働かすのがまたしても吟味役の渡辺だった。

「奉行所の顔が立つよう処理をする」との言葉に、役人たちは安堵する。渡辺はまず中山峠に行き磔にされていた猫の死体を地中に埋めて、そこに「切支丹お島の墓」という墓標を立ててしまう。さらにお島を呼び出しこれを捕え、「お前は切支丹お島を騙る不届き者である。罰として相川を所はらいとし、羽茂へ流罪とする」と言い渡した。

お島は潜伏キリシタンとして信仰の生涯を送った。このため、お島の墓は中山峠と羽茂大蓮寺の二箇所にあるのだという。

.
中山峠は新潟県内唯一のキリシタン殉教地であり、羽茂大蓮寺も実在する。なお、相川は金山や奉行所で有名な地域で、羽茂といえばおけさ柿で有名な地域だ。このように佐渡の実際の地名が多く登場するこの話は、寡聞の限り、小山直嗣著『新潟県伝説集成佐渡編』と、浜口一夫・吉沢和夫編『佐渡の伝説』の二冊に収録されている(谷真介著『新版 キリシタン伝説百話』にも収録されているが、上記二冊から再話したものだろうか)。上の引用は小山のテクストを元にさらに短く再構成したのだが、浜口・吉沢の方はより詳しく、展開の隙間を埋めて分かりやすく合理的に叙述されている。もちろん筋書きが変わるわけではない。

なお、その出典には児玉宗栄『外海府こどもむかし話』とある。読み比べみると小山が浜口・吉沢バージョンを短くまとめたとは考えにくい気がするので、児玉のテクストが両者の共通祖先となったのか、小山と浜口・吉沢がそれぞれ異なる伝承者もしくは昔話集から採録したのか、いずれかであろう。

 

この話の疑問点

お島の父の危篤の報は誰が出したのか、なぜお島がキリシタンであることが公然化し捕えられたのか、渡の人々は江戸時代に猫を飼っていたのか。奉行の取り乱しぶりもさることながら、吟味役の渡辺がたまたまキリシタンであったのも都合が良すぎる。実家のある地域への、しかも同じ島内への「配流」に至ってはほとんどギャグだ。この物語、不思議な点は列挙し始めれば切りがないのだが、あまりにも良く出来すぎている感が否めない。

たとえば、佐渡の昔話で猫というのも印象としてはめずらしい気がする。動物が出てくる場合、多くはムジナ、カッパも多いが、たとえば馬や牛である。猫といえば「おけさ節」にまつわる昔話に登場するくらいだろうか。おまけにこの話、誰が主人公なのかじっくり考えないとわかってこない。終わり方だけを見れば、キリシタンのお島ということになるのだろうが、お島自身は受け身的で、ほとんど何もしていない。キリシタンとして生涯を安泰に送り、寺の墓地に葬られたというのも昔話にしてはめずらしい展開だ。

そもそも昔話が「めでたしめでたし」で閉じられる場合の多くは金持ちになるか結婚するかが、いわば「お約束」である。また、いわゆる「鶴の恩返し」(なお木下順二の「夕鶴」は佐渡の昔話「鶴女房」が原話だと言われる)のような動物報恩譚とも言い難い。猫がそれまでに受けた何かの恩義のお返しに身代わりになった、という展開ではないからだ。また、お島が殺された憎しみから奉行を呪ったり懲らしめるような話でもない点も、多くの昔話とは趣が異なる。

想像力をたくましくすれば、「お島の墓」が佐渡島内に二つあるという不思議を説明するための話なのだろう。しかし実際にその墓が実在するのか確認していないので分からない。

もちろん神学的なテーマになりそうな要素はある。お島(猫)の殉教の覚悟、身代わりの死とそれによっていのちを得るという十字架の神学、そして渡辺の知恵など、まるで聖書のようなメッセージがたくさん詰まっている。しかもここには神の直接介入や説教くささがない点で、嫌味なく万人受けするような筋書きになっていることは特筆すべきだろう。

 

この話はいったいなんだ?

この話を、物語論という、聖書学でも用いられる文学理論の「方法」で分析してみよう。

物語は時代設定の説明とお島の紹介(提示部)、彼女の捕縛(起動契機)により展開し始める。渡辺が牢を訪ねることで解決への模索が始まる(複雑化)が、お島の断固とした殉教の覚悟により最初の救済は失敗に終わる。時間をおかず本物のお島が現れる(複雑化の第二段階)。物語が展開していく中で、袋小路に突き当たり最も緊張が高まるのは、相川奉行所の役人衆が慌てふためき困り果てている場面である。そこで渡辺が一計を案じ、事態は急速に解決へと向かう(転換点)。プロットの転換点で鍵を握るのは、またしても渡辺だ。そしてお島はその機転によっていのちを長らえ、信仰者として生涯を閉じる(解決部)。従って、キリシタンお島の墓は佐渡島内に二つある(結び)。

小山直嗣著『新潟県伝説集成佐渡編』(恒文社、1996年)と浜口一夫・吉沢和夫編『佐渡の伝説』(角川書店、1976年)

物語の構造は、奉行所吟味役の渡辺藤左衛門が当初救えなかったお島(最初は猫だが)を、本物のお島が現れると今度はそれを救済するという、破滅とそこからの救済(失敗/成功)という「解決型プロット」としてまとめることができる。牢にいたお島を見舞った渡辺が動くからこそ、この物語は一本の筋で繋がる見通しの良い話になっており、渡辺の存在そのものが解決へ向かう伏線となっているので、きれいな物語として成立しているのだ。

登場人物の中での「知識の差」も大きな役割を果たしている。渡辺は他のどの人物よりも多くを知っている。しかしお島はおそらくほとんど何も理解できぬまま羽茂に流されている。奉行も何が起きたのか理解していない。しかし渡辺も、猫が何者と認識していたのか、本文からはわからない。つまり、猫の背後にお島を救済する存在がいたのかどうかは、解釈次第だということだ。

いずれにしても、筋書きへの貢献度からも知識の優位さからも、主人公はこの渡辺だ。

キリシタンにとって死とは日常であり、信仰はいのちがけだった。そのような時代にあって、「美しい」としか形容されず、歴史上名を残したわけでもない、何の変哲もないお島という女性を守る猫とは、何者なのだろうか。

言うまでもなく、猫が果たしている役割はイエス・キリストの十字架そのものだ。猫の身代わりの死に気付いていたのかはともかく、お島は十字架の猫の死によっていのちを得る。これを復活体験と言わず何だというのだろうか。そう考えるなら、表面的には大活躍の渡辺も、真の救済者のほんのささやかなお手伝いをしただけ、ということも言えそうだ。

それにしても、キリシタンのお島が命を長らえ往生したというこの昔話、本当に昔話だとしたら、佐渡島は相当寛大な国だと思う。日本人であることを論じるなら、また日本人としてキリスト者になることを追求するなら、キリシタン昔話は格好の一次資料になるだろう。

 

石原良明(いしはら よしあき)
上智大学神学部非常勤講師。聖書学者。物語分析の視点から聖書を研究している。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

4 × 3 =