沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(2)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか


(前回の記事はこちらです)

倉田夏樹(南山宗教文化研究所非常勤研究員)

カトリック石垣教会。海色の屋根が印象的だ

沖縄の人びとの想いが集約されているのは島唄――土着の問題

沖縄の事柄は、内地の日本人にとっては特殊なことが多く把握するのが難しいので心が向きにくい事情もあるだろう。沖縄の人びともすべてを日本人(ないちゃー)に語るわけではない。そんな際に、内地日本人が沖縄の人びとの心情を知るのに有用なのが島唄(沖縄民謡)だ。余談だが、沖縄の民衆思想を知る上で沖縄の音楽(特に歌詞)を研究することが肝要として、米国CIAが研究レポートを発表していると沖縄の地元日刊新聞である「沖縄タイムス」が報道した。皮肉にも、アメリカの方が日本内地よりよっぽど「沖縄に心を向けている」と言えるだろう。

【参照】米CIA、BEGINやモンパチ分析していた 沖縄世論研究で(沖縄タイムス2018年5月28日付)

日本から見て沖縄本島の先にある八重山諸島(石垣島、宮古島など)の有名な島唄にデンサー節がある。「デンサー」とは、「伝承」の訛りで、年長者から年少者への諫め、処世術を伝承する内容で、とくに嫁入りに力点が置かれているように思われる。歌詞と、日本語訳を紹介する。


デンサー節(八重山民謡)

デンサー節ちゅくてぃ
わらびんちゃにゆまちぃ
しきんのいましみなゆしどぅ
わんねいにがゆる
デンサー

うふやぬなんてんばなくなだ
ぬきやぬなんてんばなくなだ
きむぐくるみやでぃくまにゆみくだ
デンサー

うやふぁかいしゃふぁから
きょうだいかいしゃうとぅとぅから
きないむつかいしゃゆみぬふぁから
デンサー

むぬいいざばつつしみよ
ふつぬふかからんだすなよ
んだてぃからやまたやぬみやならぬ
デンサー

いきがややぬなかばしら
いなぐややぬかがん
くるちばしらとかがんやたげいにすなわり
デンサー


日本語訳

教訓歌(伝承)を作って
子供たちに読ませて
世間で大切に伝えられている戒めを、
教え諭すことが私の望みです
このことを伝えておきますよ

お金持ちだからと嫁にきたのじゃない
貧乏だからと嫁にきたのじゃない
貴方の心映えの良いのを見て、わたしは嫁にきたのです
このことを伝えておきますよ

親子の関係の良し悪しは、子どもの姿を見れば、わかる
兄弟の間柄の仲の良さは、弟がどれだけ兄を尊敬しているかで、わかる
家庭の仲睦まじさは、嫁の育てる子どもの様子を見ていれば、わかる
このことを伝えておきますよ

人の文句を言いたくなった時は、口を慎むことです
たとえ思っていても、言葉を口から外へ出してはいけない
一旦口に出してしまってからは、もう一度、その言葉を呑み込むことはできないのです
このことを伝えておきますよ

男は、一家を支える大切な中柱・大黒柱です
女は、家庭の中の様子を映し出す鏡のようなものです
立派な黒木の柱と磨いた鏡とは、良き家庭には、常に互いに備わっているものなのです
このことを伝えておきますよ


八重山では有名なこのデンサー節に、波照間永伴という学校の校長が歌詞を充てて、「愛の源」という聖歌を作っている。このデンサー節聖歌「愛の源」の歌詞板は、沖縄県石垣市内にあるカトリック石垣教会の内側にある。これもまた、沖縄の精神風土とキリスト教の土着化(インカルチュレーション)と言えるだろう。

石垣教会内にあるデンサー節聖歌「愛の源」の歌詞板。これに会いに、石垣島に行くのもいいかもしれない

さらに、沖縄の聖歌としては、「マラナタ」「大波のように」「ごらんよ空の鳥」などで知られる新垣壬敏(つぐとし)さん(白百合女子大学教授)のものが有名なほか、カトリック、日本聖公会双方に、2つの「命どぅ宝」(ぬちどぅたから=「命こそ宝」の意)という聖歌がある。カトリックの方の歌は、6月23日の「平和巡礼」でも歌われていた歌で、日本聖公会の方は、下地薫さんという沖縄の方作曲の歌だ(和名タイトルは「沖縄の磯に」「日本聖公会聖歌集」第423番)。こちらは音階が西洋音階でも日本音階でもなく、明らかに琉球音階で大変珍しい。ぜひ聴いていただきたい。このあたりにも、キリスト教の土着化のヒントがありそうだ。

話は逸れるが、石垣島にはカトリック石垣教会の隣に海星学園幼稚園・小学校というカトリック学校がある。沖縄本島には沖縄カトリック中学校・高等学校があり、場所は沖縄国際大学(宜野湾市)のすぐそば、つまり普天間基地の近接地である。昨年は、沖縄カトリック高等学校(カト高)に硬式野球部が発足して、甲子園に出場した豊見城高校OBを指導者として招聘し、甲子園を目指していると話題になった。

高等教育においても、沖縄キリスト教学院大学(中頭郡)というプロテスタント系の学校があり、幼小中高大と、キリスト教学校が用意されている。沖縄キリスト教学院大学(以前は短大のみで、通称キリ短と言われていた)には沖縄キリスト教平和研究所が併設しており、「6・23」前後にはもちろん講演会がなされるほか、平和研究・平和教育の拠点となっている。

沖縄キリスト教学院大学。地元のOBの友人はドラキュラ城と呼んでいた

 

現実に還って

以上、「なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか」というテーマを念頭に置き、「沖縄キリスト教史」を概観しながら考察してみたが、なかなか難しい。筆者も沖縄から東京に戻って2週間。すっかり都会の日常に埋没しつつある。そんな今も当然、沖縄の人びとの頭上には脅威が迫っている。

沖縄と東京との間には平均所得が2倍以上の差がある経済的実情と社会的構造は覚えておくべきことだ。一人当たりの都道府県別年収では、1位はもちろん東京都で、47位は沖縄県、長らく46位は筆者の郷里・長崎県である。「46位と47位」ということではいないが、同じく東京から見て「貧しくされた」辺地である沖縄には関心を持ってきた。ともに日本史の中で「捨て石」とされた地のようにも見える。戦争被害も大きかった地である。

都市に住む人には、「都会で稼いだ金を地方に落とす」というライフスタイルがいいかもしれない。東京には銀座を中心に各県のアンテナショップがあるし、そこからお中元やお歳暮なども送れるようだ。また、自分の郷里でなくても「ふるさと納税」ができる。今はネットで簡単だ。どちらも地方を支える営みといえよう。

日本のカトリック教会では、8月に入って「広島原爆の日」の8月6日から「終戦」の8月15日までを平和旬間としているが、「拡大平和旬間」として、平和旬間を「沖縄慰霊の日」の6月23日から始めるというのも、「沖縄に心を向ける」ための一助となるかもしれない。

沖縄から戻り東京で見つけたポスター。中央からもこのような声がある

石垣島で見つけた「マリヤソフト」(マリヤ乳業)

 (写真提供:筆者)

 

沖縄とキリスト教、沖縄のキリスト教(2)――なぜ日本人(ないちゃー)は沖縄に心を向けないか” への1件のフィードバック

  1. 沖縄は戦争の傷跡が今も残る。
    歴史的にも中国や鹿児島との貿易の拠点
    という立場で中立を貫いてきた場所と
    わたしは思っています。
    だからこそ、苦しくても笑ってなんくるないさー。

    沖縄でタクシーに乗った時の話。
    アメリカの基地がおおきく場所をとり
    戦闘機が飛び交う。
    そんな沖縄の事をどう思っているかと
    毎度不躾なわたしはざっくばらんに聞いたことがあります。

    わたしの村はさ〜。
    小さな村でなんにも無いけど。
    夏の花火はすごいよ〜。
    みんなくるよ。

    結局、援助金があるので暮らしていける
    とのこと。

    基地を追い出したい人。
    そうでも無い人。

    複雑な沖縄の想いを感じたのを思い出します。

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