ペトロのしゅうとめ


イエスは4人の漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を弟子にしたあとにペトロとアンデレの家に行った。ペトロの姑が熱を出して寝ていたのでイエスはその病を治した。

ペトロに姑がいたということはペトロは結婚していたということであるが、福音書にはペトロの妻がどういう女性だったのかは描かれていない。何ももたずにそのままイエスについて行ったペトロのことをどうおもっていたのだろうか? 想像してみたらおもしろい。

ところでこの場面には併行箇所があるので読み比べてみよう。
マタイ8章14~17節、マルコ1章29~34節、そしてルカ4章38節である。実際に読んでみて何か気がついただろうか?

イエスと姑との接し方が違うのである。

マタイは「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって一同をもてなした」とある。

マルコは「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」である。

ルカは「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」のである。

するとあのレンブラントの絵はマルコによって描かれているわけだ。

ペトロの姑を癒やすキリスト。レンブラント,1959年頃

ペトロの姑を癒やすキリスト。レンブラント,1959年頃

このような描き方の違いは他の箇所にもいくつか見られるので。それはおいおいと紹介していこう。ユルゲン・モルトマン・ヴェンデルはこのマルコの「感覚性」に注目をしている。http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394056134.html

マルコがもっとも人間的なイエスを描き、あとになればなるほどイエスが神格化していくとしたら、イエスの描き方でもっともおもしろいのはマルコということになるであろう。

ところでこの場面にペトロとその妻はいたのだろうか? 私には2人ともここにはいなかったように思えるのだが、どうだろうか? ペトロの妻がそこにいたら、姑がみなをもてなすことはせず、嫁がするはずであり、ペトロ自身がいたらきっと何かを言わないわけがない。
だとしたら、どうして2人はそこにいなかったのか? イエスは2人がいない時を見はからってペトロの家を訪問したのかもしれない。それはなぜ?
そこにまた想像の物語が始まるのである。

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