復活祭を心から喜びのうちに迎えたい……コロナ禍の中でも、いや、コロナ禍だからこそ、そんな気持ちが働いたのか、なぜか、この4月のテーマは「笑い」となりました。「笑い」にはもちろん、意地悪な笑い、嘲笑、冷笑といったものがありますが、ここでのテーマは、もちろん、ほんわかした笑い、ユーモアがもたらす笑い、場合によっては爆笑、大笑い、気に利いたジョークがもたらす笑いのことです。
いずれにしても、笑いは人間にしかないのでは? ……こんな気づきが古代からあります。アリストテレスは笑いこそ人間を他の動物と分かつものと論じたといわれます。以来、西洋思想史では、しばしば、論じられるトピックとなっていきます。
さらに、「笑い」がキリスト教にとっても隠れた大テーマであることをご存じでしょうか。キリスト教徒は、深刻な顔をして品行方正な人々というイメージが一般的でしょうか? そうでなくてはならない、そうならなくてはならないというキリスト教的生き方に対する先入観が案外強くはなかったでしょうか。それは、むしろ「ファリサイ派」に象徴される生き方であって、イエスが開いた生き方の道は、むしろ、ユーモアと心からの笑いに満ちたものだったのではなかったでしょうか? 現代において、このような気づきや指摘が強くなされるようになっています。
実際には、キリスト教と笑いは不可分であり、「喜び」があるところ、「平和」があるところには、いつも心からの笑いがあるのでは? 復活したキリストに出会った使徒は、平和と愛の笑みで満たされていたはず。表立って「笑い」と語られていないところにも、実は「笑い」が充満していた……そのことに心を留めるなら、キリスト教がずいぶんと違った姿で見えてくるかもしれません。それこそが「福音」の道、「福音」であるしるしでしょう。
“生きづらさ”が語られる現代社会にあって、生きることに深さと面白さと活気を取り戻させてくれる「笑い」の妙味に心を向けることも大切です。若い世代の教育においても、実年世代の生き方の模索においても大切な観点である「笑い」を、キリスト教への問いかけと、重ね合わせながら、新たな視野を開いてみたいと思います。
喜びあるところに笑いあり、のはずなのですが、聖なるものの厳かさとの微妙な兼ね合いから、なかなか主題化されることがなかった話題ですね。わたしは教員なのですが、一昨年、演習でロシアの瘋癲行者や真宗の妙好人などと交差させて、宗教ことにキリスト教における笑いを扱ってみたのですが、残念ながらうまくいきませんでした。ヒントをいただけたら、との想いがつのります。感謝とともに。